ビハール号事件

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ビハール号事件とは、1944年3月に発生した日本の重巡洋艦利根によるイギリス商船ビハール(Behar)の撃沈とその捕虜の処刑、及びその行為に対する裁判である。

事件概要[編集]

1944年昭和19年)3月9日、インド洋上において第七戦隊から第十六戦隊へと臨時配属され、インド洋上の敵通商船破壊作戦を受命していた重巡洋艦利根が英国商船ビハール号を撃沈し、英国人女性2名を含む乗員約115名(白人32名、インド人80名、中国人3名)を捕虜にした。同年3月17日女性2名を含む約35名の捕虜をバタビアの陸軍俘虜収容所に送ったが、翌18日未明スマトラ島バンカ島間の海峡にて残りの80名の捕虜を利根後甲板上に集めて全員処刑した。

問題とされた戦闘行動[編集]

黛治夫艦長の指示で、アメリカ軍艦に偽装するため艦首の菊の御紋章をグレーのキャンバスで隠し、米国旗をメインマストに掲げ、不明瞭なモールス信号を探照灯で送りビハール号を油断させた。このとき利根航海長である阿部浩一少佐が「御紋章を隠したり、米国旗を掲げるなど卑怯です」と進言し、黛艦長は国際法違法ではないと諭したという。その後ビハール号に時速33ノットで急接近した利根は当初は拿捕を目論んでいたが、ビハール号の行動から撤退を開始したと判断、左舷正横9000メートルに見る位置に至り、20センチ主砲4門から九一式徹甲弾を10斉射し、ビハール号を撃沈せしめた。

俘虜80名を処刑したことは、海軍軍令部、ひいては南西方面艦隊司令部から十六戦隊への「作戦中の俘虜は処分すべし」という下令に基づいての行動であるが、これは明らかに戦時国際法違反である。しかし、利根および黛艦長が35人の俘虜を届けた点でこの下令には従っておらず、その後十六戦隊の指揮下を離れて後に80名の俘虜を処刑したこと自体も軍令違反である。

事件の顛末[編集]

この一連の事件に際し利根艦長であった黛治夫大佐の執った戦闘行動が終戦後英国で問題となり、生還した俘虜から黛艦長の取った戦闘行動、国旗詐用などが明らかとなり、黛艦長と当時利根が属していた第十六戦隊司令官だった左近允尚正少将が戦犯指定された。香港軍事裁判により黛治夫は懲役(重労働)7年、左近允尚正は死刑となった[1]

出典[編集]

  1. ^ Case No. WO235/1089”. Hong Kong's War Crimes Trials Collection. 2013年8月25日閲覧。

関連図書[編集]