ノート:高句麗

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Ryo 625へ[編集]

Ryo 625が雑多な内容の箇条書き、精度、信頼性要検証のテンプレを挿入しましたが、具体的にどこが問題なのかきちんとノートに書くべき。そうでないと、問題個所が分からないので改善しようがありません。ピンポンダッシュのように適当にテンプレだけ貼り付けてその場から立ち去る無責任な行為は止めるべきだし、荒らし行為とみなされても仕方ありません。--219.111.112.14 2018年3月5日 (月) 16:37 (UTC)[返信]

ツングース系と断定することについて[編集]

IPさんのこちらの編集についてです。根拠を、ということなのでとりあえず書きます。池上二良「東北アジアにおける言語の変遷」『民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史』pp. 160-161には夫余、高句麗、濊、東沃沮の言語について「ツングース・満州語の一派かまたはそれに近い言語とも思われるが、むしろ朝鮮語と近い親縁関係にあるか、詳しくしらべてみなければならない。」とあり、田中俊明「高句麗とは」『高句麗の歴史と遺跡』pp. 17-18 には「ところで一般には高句麗をツングース系であるとしているが、ツングース(エヴェンキ)とははるか後代に東北アジアの主流となる民族であり、系譜的にそこに流れていくと考えるのは決しておかしくはないが、おなじように漢族、朝鮮族の形成にも影響を与えているというべきで~」「けっきょく高句麗は、高句麗族として把握するのが肝要であり~」「高句麗の言語についても、ツングース・マンチュー語派に属するとの見かたがあるが、さきと同様の問題がある(中略)およそ系譜的につながると見るのは問題ないであろうが、高句麗語についての情報がそれほど多いわけではない。」とあります。また出版は古いですが、実際に言語的な解析を行っている李基文『韓国語の歴史』pp. 42-46 では高句麗語とツングース系言語との類似点、非類似点を抽出していますし、ツングース語族と夫余語族を分けた上で高句麗語を夫余語族の言語と設定しています。

ついでに言えば、馬淵らの「『三国史記』記載の「高句麗」地名より見た古代高句麗語の考察」にあるように、しばしば高句麗語と日本語の近縁性(関係性)に言及する学者もいます。比較的新しいものとしては板橋義三「日本語の源流と形成」があります。面白いのは李や板橋のように実際に言語についての解析を行っている人物は高句麗語について、日本語や中期朝鮮語の方がツングース語とよりも一致度が高い。また複合的な要素がある、と言うような結論を出している点です。李は中期朝鮮語や新羅語との近縁性を強調していますが、この辺は李としては最終的に高句麗語を韓国語と関連付けたい雰囲気もちょっと感じます。いずれにせよ、日本語や中期朝鮮語がツングース語ではないことは言うまでもなく、これらも単純に高句麗語をツングース語の一派とする断定とは背反するものです。

上記の通り、高句麗語はツングース語族と言う形で言及されることが多いけれども、断定しない学者が存在する点を考慮に入れて「しばしばツングース系民族によって建てられたとされるが、その詳細は不明である」としました。高句麗をツングース系と断定する記述は実際の研究を正しく反映していないと考えます。比較的短文の事典類などではツングースとするものも多いので、「ツングース系と言われる」というのはありだと思いますが、そう言い切れないという立場が明確に存在することをわかるようにすべきです。「詳細は不明」と言う言い回しにしたのは、馬淵ら論文の記述から、復元できる単語の数が80程度、確実性が高いのは50程度であることが明らかであるためです。これは単独の言語としての高句麗語の実態がほとんどわかっていないことを意味しますし、当然のことながらここから「確実な系統関係」を割り出すのは不可能でしょう。なお、概説書では系統関係について敢えて言及しないものも多いことを付言します。--TEN会話2018年7月18日 (水) 14:13 (UTC)[返信]

工学部卒の工学博士の論文を引用しているのですが、 見落としたのかもしれませんが、ページ87-88のどこにそのようなことが書かれているのでしょうか?

「しばしばツングース系民族によって建てられたとされるが、その詳細は不明である」という文章は不適切だと思います。田中氏も「一般には高句麗をツングース系であるとしている」と言っていますよね。せいぜいこの出典で書ける程度は、「一般は高句麗はツングースとされるが、詳細は不明という学者もいる」くらいでしょう。

多数説は多数説として、少数説は少数説としてバランスを取って書くというPOVという方針があって、多数のツングース支持者(「ツングースといわれる」という消極的支持者も含めて)と少数の不明説支持者の配分で書くならば、「高句麗はツングースといわれることが多いが、一方不明という少数の意見もある」程度でしょう。あと、「概説書では系統関係について敢えて言及しないものも多い」=「不明だから書かなかった」とは断定できないでしょう。--133.218.30.214 2018年7月19日 (木) 16:25 (UTC)[返信]

返信 返信ありがとうございます。浅川らの論文の信憑性についてですが、元となる調査ははCinii抄録に「本研究は,建築史・民族学・考古学の研究者が協力して,北東アジアにおけるツングース系諸民族住居の特質と歴史的変遷を描きだそうとする試みである。」とある通り、筆者が単独で行ったものではありません。ツングース系諸民族をテーマにした研究であり、まず何をツングースとみなすかについてから話が始まっています。また本論文中に言語学大辞典からの池上二良氏によるツングース語の一覧の引用があり、見ての通り高句麗語は含まれていません。本文にも「すでにのべたように,ツングース語の最古の資料は,12世紀女真の碑文や銘文であって,少なくとも言語学的にみた場合,女真以前の国家や民族については,「ツングース」という用語を控えるべき段階にある。」とある通りです。
「詳細は不明」と言うのは元々「§言語」の内容を単純に意識して作った文面なので正確に出典とは対応していません。ですのでこの文章自体には別にこだわりません。高句麗語の実態が不明だというのは馬淵氏らの論文と李氏の『韓国語の歴史』から明らかであるとは思います。「概説書では系統関係について敢えて言及しないものも多い」=「不明だから書かなかった」とは断定できないのはその通りです。「言及しないという立場」とでも分類すべきでしょうか。近年発行された朝鮮史の概説書や高句麗史の研究書の一般的傾向から言えば言語系統関係について「言及しない」のがトレンドであり、私としては冒頭部分ではそうするのが本来はベストだと思います(冒頭文をゼロから書いていたら多分そうしていたと思います)。ツングースについての冒頭の言及を残したのは元の記述をなるべく残した結果です。
ちなみに多数のツングース支持者と少数の不明説支持者という分類にはあまり賛成できないです。まず「ツングースといわれる」と言うのは状況に触れているだけでこれを消極的支持者とみなすべきではないです(例えば武田氏は実際、『高句麗史と東アジア』でも『隋唐帝国と古代朝鮮』でも言語系統と言うアプローチを使用していません)。また、そもそも朝鮮史や高句麗史をテーマにした書籍で多く見られる「言及しない」と言う立場を無視されてしまいます。不明説支持者とありますが、こちらも別に「不明」を支持しているわけではなく田中氏含めて要するに史料が少なすぎてはっきりと言えないと言うことを述べているのみです。具体的にどうはっきりしないのかは馬淵氏らの論文と李基文氏の書籍を見れば明らかであります。
文章を修正するとして、例えば頂いた「一般は高句麗はツングースとされるが、詳細は不明という学者もいる」を元に、「一般的には高句麗はツングース系とされることが多いが、詳細は不明という学者もいる。系統関係については特にこれには触れられない場合も多い」と言うような文章ではいかがでしょうか?
ついでですが、もし高句麗語が具体的にどのような理由によってツングース語と判定されるのか、を論証しているものをご存じであれば教えていただけると嬉しいです。私が加筆した「§言語」は現状李基文と馬淵らの出典をベースにしていますが、いずれも明確にツングース説は取っていない学者です。調べた限りツングース語であるとする本や論文は「なぜツングース語であると言えるのか」と言う論証を伴わないものしか見当たらず、それについて記述できませんでしたが、バランス的にはツングース説を導き出した分析への言及もあるべきだと思っています。--TEN会話2018年7月19日 (木) 17:50 (UTC)[返信]
コメント 一週間ほどたちましたが上記についていかがでしょうか。追加になりますが、興味が沸いたのでツングース語について図書館で『言語学大辞典』(三省堂)にて関係ありそうな言語についての記述を調べてきました。その結果言語学方面での概ねの整理は把握できたと思います。
  • 『言語学大辞典』「ツングース諸語」より:上記、浅川らの論文の引用に該当する記述があることを確認しました。また「歴史上、明らかにツングース語である言語として、はじめてあらわれてくるのは女真語である。女真語は金国(1115~1234)を建てた女真族の言語である。」と明記されています。
  • 『言語学大辞典』「女真語」より:この言語についてはあまり詳しく載っていませんでしたが「明代(1368~1644)まで行われたが、今日では死語である。女真文字によって書かれた、金代および明代の碑文と文献によって実証されるが、これは、明らかなツングース語の記録としては最古のものである。満州語ときわめて近く、古い満州語か、あるいはその方言であるとみられる。」とやはり明記されています。
  • 『言語学大辞典』「満州語」より:「ツングース語の1つであるが、現存する他のツングース諸語とは、いろいろな点で、かなり異なっている。」となっており、文法、残存史料の面からツングース語の中でも特異な位置を占めていることが記載されています。
上記から見て、「多数のツングース支持者」なるものは本筋である言語学分野において存在しないと確信します。一応関係ありそうな本もざっくり探してきましたが、具体的に高句麗語をツングース語であると論証するようなものは残念ながら見出す事ができませんでした。Ciniiで見る限りツングース語の専門家の中にも高句麗語を取り扱った論考を発表している人が見つかりません。一方で歴史辞典類、とりわけ短文で概略のみ説明するようなものでは高句麗を「ツングース系」と表現するものが多数あるのは、記事本文に付されている膨大な数の出典(広辞苑や評論家など不適切なものを多々含みますが・・)にあるように実勢として存在するようです。記事中にあるものに加え、『國史大辞典』(吉川弘文館)にも同様の記載があるのを確認しました。ただ、歴史辞典類以外でのツングース系説に触れる書籍の全体の傾向としては1. 論拠は伴わず一文で説明する物が多い。 2. やや古めの本が多い。 3. 歴史学者によるものは「であろう」「言われている」「考えている」という形式をとるものが多い。断言しているのは古い本か、非専門家のものが多い。というところです。また、新しめの概説書である『世界史大系 朝鮮史』(山川出版社 2017)『世界各国史 朝鮮史』(山川出版 2000)、『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』(中央公論社 1997)、『朝鮮史研究入門』(名古屋大学出版会 2011)、『韓国の歴史 増補改訂版』(河出書房新社 2017)、『朝鮮の歴史』(昭和堂 2008)いずれにも、系統関係についての記載がないことを確認しました(関係ありそうなところだけ拾い読みしたものが多いので見落としの可能性は残りますが)。
以上から、やはり①系統関係については記載しない、②ツングース系とされることは多いが実態は不明とする。のいずれかが適切であると考えます。仮にツングース系説に言及する場合には、言語学的には女真語より昔の言語についてツングース系とはっきりわかっているものは存在しないことについて明記するべきであるように思います。一応一週間経過したので、追加の意見がなければ上記理解をベースに記述を少し修正しようと思います。--TEN会話2018年7月27日 (金) 16:24 (UTC)[返信]

2018年9月18日[編集]

「宋晃、崔毖、郭充、馮丕、封抽、游泓、冬寿など中国人の高句麗流入者が無視できない役割を果たした」という李成市 (1998) p. 26からの記述は誤読であるため削除。これらは楽浪・帯方滅亡後に流入した漢人の実例としてあげられたもので、実際に彼らが高句麗で果たした役割について言及はない」とする理由について、李氏の著作を確認したところ李氏は「高句麗の四世紀における国家発展に夫余系氏族の果たした役割が決死って軽視できないことを指摘した。しかし、さらに無視できないのは漢人を中心とする中国系人士の動向である」(p24)「四三〇年代以降、百済と高句麗の三〇年以上に及ぶ抗争により、百済は疲弊したが、それには北燕から高句麗に逃れた残党が大きな役割を果たしていたと訴えているのがみえている。百済の外交上の戦術もあり、そのまま受け取ることはできないにしても、華北の争乱を背景に東奔した人士が、高句麗の地において果たした役割が決して小さいものでなかったことを、ここからいささかなりとも読みとることができるのではないかと思う」(p26)「五世紀以降、外交・軍事の場に、中国的な姓を帯びたものの活躍がみられ、ここから高句麗が中国系諸集団を組織し外交交渉や軍事活動に彼らを登用していたと推測することも可能である」(p27)「高句麗王権と、冬寿のような中国系人士の動向を素描してみよう。前述のように高句麗は、すでに三一〇年代に楽浪郡の排撃を果たしており、その後、前燕の攻撃にあい王都の五万余人を奪われると、平壌地方への疎開を強いられるが、やがて急速な復興を遂げている。そうであるならば、高句麗のこの地方への後退とその後の復興は、この地域に滞留していた楽浪・帯方遺民や当該期における中国からの流移民とのなんらかの協力関係なくしてはありえなかったのではあるまいか。その際に、冬寿のような、中国からの亡命高官は、両者の関係構築に重要な媒介的役割を果たしたのではないだろうか。高句麗は平壌地方に一時避難し、この地方の中国系人士の支援と協力を得て復興の基礎を築いたと推察されるが、高句麗の復興に際して、この地域の楽浪・帯方遺民との妥協的な共存関係が成立し、そのうえで彼らの積極的な支援があったと推量してみたい」(p28)「冬寿の外交上の役割である。高句麗の故国原王はこの時代、前燕に奪われた父の遺体や母・妻の返還要求を行う一方、東晋への通交を果たしており、冬寿がこうした外交上の難局に大きな役割を果たしたとことは十分にありえただろう」(p28)「以上みてきたように、高句麗は燕との対立・抗争のなかで、夫余系の流移民や中国からの亡命者を受け入れたり、楽浪・帯方遺民を包摂したりして、彼らを王権のもとに組織化することによって、四世紀から五世紀にかけて王権の飛躍的な伸張を遂げ、古代国家形成の基礎を築いたのである」(p29)と述べられてますよ。また李氏の弟子である井上直樹氏は「楽浪・帯方郡下の漢人勢力が高句麗王権や百済王権に取り込まれ、それら諸国の史的発展過程に寄与したとも考えられるのであって(李成市「東アジアの諸国と人口移動」(『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年)、その点からみても彼らの動向は看過できないであろう」(p417)と述べられています。

返信 私の更新は概ね上の文章と齟齬がないような文章だと思うのですがいかがでしょう。誤読であるのは「宋晃、崔毖、郭充、馮丕、封抽、游泓、冬寿など中国人の高句麗流入者が無視できない役割を果たした」についてです。李成市 (1998) p. 24にあるこれらはあくまで高句麗に流入したことが史書に残されている漢人の名前を一覧にまとめたものです。従って宋晃、崔毖、郭充、馮丕、封抽、游泓、冬寿といった具体的な個人が高句麗でどのような役割を果たしたのかについては、冬寿についてのかなり曖昧な記述しかありません。「中国系人士が無視できない役割を果たした」は李氏の記述の通りですが、宋晃~冬寿の一節は漢人たちが高句麗領内に流入していることの証明であって、この具体的個人が果たした役割は記載されていないのです。--TEN会話2018年9月17日 (月) 17:20 (UTC)[返信]
  • 追記です。改めて確認してみましたの少し詳細に述べたいと思います。取り消しされた私の加筆部分の記述は、「一方で、この時代中国の戦乱から逃れてきた漢人たちが高句麗の領内に流入し、その発展に大きな役割を果たすようになる。」以降、上記でIPさんが引用された記述と概ね齟齬がなく(同じ本の同じ箇所をベースにしているので当然ですが)、「ノート参照」と要約がありますが、全部取り消しというのは上記理由からは理解できません。こちらについてはもう少し詳細を説明していただきたく。現状では元に戻したいと思います。
  • 宋晃、崔毖、郭充、馮丕、封抽、游泓、冬寿については、p. 24を再度ご確認いただければと思います。この一覧は「多くの中国人が高句麗領に流入していた。(中略)四-五世紀における年次の明らかなものだけ列挙すれば、次の六例が認められる。」という一文に続いて入れられている一覧です。この後、具体的に高句麗での役割が検証されているのは冬寿のみで、それも引用していただいた部分にある通り「冬寿がこうした外交上の難局に大きな役割を果たしたとことは十分にありえただろう」(p, 28)と言う推論に留まるものです。その後のページの李成市の論証も、墳墓が見つかっている冬寿と某鎮を軸に「中国系人士」と言う抽象的な社会集団のありようについて論じたものであり、一覧に列挙された彼らが実際に個としてそのような役割を果たしたことは全く論証されていません(その後の文章を読んでも彼らについてわかるのは基本的に高句麗に亡命したことだけです)。故に彼らが個々人が高句麗の国家形成において何らかの役割を果たしたと読める元の記事の記述の「宋晃、崔毖、郭充、馮丕、封抽、游泓、冬寿など中国人の高句麗流入者が無視できない役割を果たした」と言う文章を李成市の『古代東アジアの民族と国家』p, 24 を出典として作るのは誤読の結果であり明確に間違っていると考えます。ついでに言えば原文にある亡命者の名前のうち馮弘、慕容評を除外している理由もよくわからないです。よってこの記述は除去改修した方が良いというのが私の判断です。--TEN会話2018年9月18日 (火) 10:31 (UTC)[返信]

高麗図経を元にした記述について[編集]

  • こちらの編集について、私が差し戻した後、再度高麗図経を元に編集が行われていますが、この加筆には複数の問題があります。
  • まず、これは前近代の史書であり、単独で出典とするのは適切ではないです。更にCiniiなどで確認する限り、これは高麗(王氏)を主題に書かれたものであるはずであり、高句麗について信憑性の高いオリジナルの情報を保有するとは考え難いです。実際文章も、「舊封境」、「今旣幷新羅百濟」、「遼水東南四百八十里. 自遼已東, 卽舊屬契丹, 今虜衆已亡. 大金以其地不毛」などの文言があることから、高麗を説明するための前置きとして昔の情報に触れているに過ぎないことは明らかです。信頼できる二次資料と組み合わせずに単独で出典として扱うべきではありません。
  • 第2にこの節で何を説明したいのかが不明です。高句麗の領域について説明するのであれば、他に参照可能な出典はいくらでもあり、北宋代の史書を用いる必然性は皆無です。また本記事に前に加筆するにあたってそこそこの数の書籍・論文を当たりましたが、高句麗の支配地域に言及するにあたって高麗図経を参照しているものはありません。
  • 第3に、二度目の更新の方ですが、日本語版Wikipediaにおいて、訳文のない漢文を本文として並べるべきではありません。確かに東洋史の専門書ではこうした漢文の直接引用が行われることは珍しくありませんが、Wikipedia日本語版としてはあくまで本文は日本語で書かれるべきです。また、封境という節名も、現代日本語としては不自然に過ぎます。
  • 以上の理由からこの加筆については差し戻させていただきたいと思います。--TEN会話2019年5月22日 (水) 15:20 (UTC)[返信]
コメント宣和奉使高麗図経、中国のの時の使臣徐兢(1091年~1153年)で言及している高句麗支配地域は歴史的記録に基づいて記録したものではないでしょうか?それとも、該当文書こちらの編集について東西二千餘里、南北一千五百餘里。は、高麗の支配領域ですか?--220.77.147.171 2019年5月22日 (水) 22:19 (UTC)[返信]
返信 返信ありがとうございます。この史料についてきちんと判断できるだけの能力は持ち合わせていないのですが、「高麗南隔遼海, 西距遼水, 北接契丹舊地, 東距大金. 又與日本流求聃羅黑水毛人等國, 犬牙相制. 唯新羅百濟, 不能自固其圉, 爲麗人所幷, 今羅州廣州道是也. 」という文面からは高句麗と高麗を同一視しているようにも見えます。当然何らかの記録に基づいて書かれたものでしょう。ですが、その記録の由来、信憑性などについては現代の学者による評価が必要です。高麗図経に記されている封境の記述が高句麗のものか否かというのは問題の本質ではなく、前近代の史書を専門家の評価等が判別できる出典と組み合わせずに本文に採用している点に問題があります。また、Ciniiで確認する限り、高麗図経は高麗(王氏)に関する論文でしか触れられていません。故に高句麗の記事の本文にこちらの史料を単独の出典として加筆をすべきではないと考えます。また節自体の必要性も感じ取れないのは上に書いた通りです。--TEN会話2019年5月23日 (木) 11:39 (UTC)[返信]

『高句麗の史的展開過程と東アジア』を出典とした加筆について[編集]

  • ipさんのこちらの編集について、「不自然ではない」と述べられていますが、現代の歴史学の描写として全くおかしなものです。そして井上直樹『高句麗の史的展開過程と東アジア』(2021)が出典としてつけられていますが、同書にそのような記述はありません。ページ番号が記されていませんが、それぞれ何ページの記述なのか明示いただきたいです。
  • 一例として「最盛期には現在の中国の北京市付近(幽州)まで植民地を置いて長い時期、漢族を支配した」に「高句麗の史的展開過程と東アジア 井上 直樹」が出典としてつけられていますが、高句麗の幽州支配説については研究史のまとめの中で言及されているに過ぎず、同書pp. 238-241の説明は要約すると以下の通りです。
  1. 徳興里古墳の職位、および『魏書』の研究から李哲仁は高句麗が幽州を支配下に置いていたと主張した
  2. 著者(井上氏)の見解としては李哲仁の見解は支持できないように思われる
  3. 同様の史料から林起煥も高句麗の幽州支配説を建てた。
  4. 同様に著者の見解としては林起煥の解釈は整合的に理解できるか疑問であるとする。
  • p. 46には高句麗の幽州支配説について上記のことがより簡潔にまとめられていますが、同書を出典に「最盛期には現在の中国の北京市付近(幽州)まで植民地を置いて長い時期、漢族を支配した」という文章が作られているのは不自然としか言いようがないです。他の部分についても同様です。--TEN会話2022年1月25日 (火) 12:28 (UTC)[返信]
高句麗の全地域が唐になったわけではありません。また、すぐ高句麗の劍牟岑による高句麗復興運動が始まりました。一時的のことをまるで次の王朝になったかのように言うことは中国史観です。他の言語版にも高句麗人の次になる王朝は渤海(南北朝時代)です。--220.126.198.89 2022年1月26日 (水) 04:12 (UTC)[返信]