ノート:秋田街道

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分割提案[編集]

1.概要 内における 国見峠の記述

>>古代より主に戦略の道として往来が盛んで、南部氏出羽国進出、戸沢氏の滴石(雫石)から角館への移動など、国見峠越えが確かな道として使われてきた記録がある

秋田街道の記述であり峠を主題にするのでしたら、国見峠 (岩手県・秋田県) を新規につくりましたので、移動された方がいいのでは?
熊本県の田原坂の記述は 「西南戦争の古戦場」の記述にとどまっています。

2.江戸時代の秋田側の街道については、生保内街道に記載され、明治以降の分のみをこちらに記述した方が相応しいのではないでしょうか!--59.146.20.48 2012年3月20日 (火) 15:48 (UTC)署名を補完させて戴きました。--MWE会話2012年3月21日 (水) 11:50 (UTC)[返信]

1. 上記引用された箇所の「国見峠越え」は「国見峠を経由して岩手と秋田(陸奥と出羽)を結ぶ道」の意味であり、その道が江戸時代に交易や巡検使移動といった需要のため管理・整備されたものが「秋田街道」です。従って明治新道開鑿以前について国見峠と街道は不可分であり、峠と街道の両方に単体で特筆するべきことが無ければ「峠の記事にその峠を通る街道について書く」か「街道の記事にその街道が通過する峠を書く」かのどちらかになるべきで、現在は後者の状態になっている訳です。「国見峠 (岩手県・秋田県)」は「仙岩峠」へのリダイレクトにされていますが、むしろ「秋田街道」へのリダイレクトにするべきなのではないかと提案します。
2. 江戸時代以前は街道に統一した名称を付けた例はほとんど無く、秋田街道も多種多様な呼び方がされていたのは本文の通りです(区間で違うだけでなく、進行方向によっても違った呼び方をされます)。明治になって「秋田街道」に統一されたことから、記事名は「秋田街道」とした上で、名称統一以前についても「同じ道の歴史の一部」として書いています。ノート:生保内街道にも書いた通り、「生保内街道」は「秋田街道の一部」であり、敢えて分ける必要性を感じません。--MWE会話2012年3月21日 (水) 11:50 (UTC)[返信]
「国見峠 (岩手県・秋田県)」からの改修工事で仙岩峠ができあがった物であり同一稜線上2.5kmのなかでの経路の移動(バイパス化)でしか有りません、峠について到達点、他の峠との差異などがかなり興味深い物が有ります。秋田街道へのリダイレクトにすると明治新道以降との関連が壊れます。明治8年改修工事、明治15年岩手県道化で終わっている峠でなく、現在のトンネル化を含めて継続し、岩手県道266号国見温泉線との関連で今も一連の流れの中で存在しています。
道路には起点と終点が有りますが、明治新道の秋田側の改修位置や終点の記述してます? 経由地の記述してます。・・・あとで書いてますが、MWEさんは道路でなく歴史しか書いていないという意味です。

--59.146.20.48 2012年3月21日 (水) 16:41 (UTC)[返信]

私の認識では、国見峠は「明治新道以前の街道が通っていた峠」以外には「現在は笹森山などと通じる登山道の一部」という程度で、単独立項できるほどの情報が無いので、59.146.20.48さんが充分な情報をお持ちなのであれば、是非ともご執筆下さい。有用な記事が増えるのは大歓迎です。
「明治新道の秋田側の改修位置や終点」は、それらを明確にしている資料が手元にないため、具体的な地点については本文に記述していません。大正期の地形図を見るに、岩手県側は江戸時代の道との重複が多いながらも坂本川を離れるあたりで大きく分岐して仙岩峠付近で合流、秋田県側はヒヤ潟で江戸時代の道と別れて堀木沢沿いに下り六枚沢右岸の現在旧国道と現道が合流する付近で合流、と読めますが、これは独自研究です。いずれ資料を探すつもりではあります。--MWE会話2012年3月22日 (木) 13:35 (UTC)[返信]

独自研究[編集]

3.参考文献やリンクについて
 一次資料(当時の文書)
 官公庁で発行している文書、市町村史(参考文書が明記された物)
 辞典(角川地名辞典 など)
 論文など検証の可能なのをご利用ください。

 一般の書籍や個人のHPなどで、著者の主観が入る物はできるだけ避けてください。

--59.146.20.48 2012年3月20日 (火) 15:48 (UTC)[返信]

3. Wikipedia:信頼できる情報源Wikipedia:検証可能性をお読み下さい。一次資料よりむしろ二次資料が推奨されますし、私が参考文献とした「東北の街道」「東北の峠歩き」その他Webサイトはいずれも検証可能な文献です。勿論、より信頼性の高い資料に基づいて修正されるのであれば歓迎しますが、だからといって「明らかに信頼に値しない資料」でもない限り記述を排斥することはない筈です。
なお、上記2文献とも巻末に参考文献を明示してありますし、その中には各県教育委員会による「歴史の道調査報告書」が多数含まれており、59.146.20.48さんが挙げられた「官公庁で発行している文書、市町村史(参考文書が明記された物)」の二次資料と考えます。--MWE会話2012年3月21日 (水) 11:50 (UTC)[返信]
 2次資料を引用した物を、3次資料、それを引用した物を4次・・・と言うようになるのですが、今は亡き国民的作家は、講演会のさいに地元へのリップサービスが多く、小説の文中で関連事項の私感を多く含んだ文書がみられ、読者は○○史観と呼んだ。というように、引用を積み重ねるで別のものになる可能があるためできるだけ、ソースの明示を求めているのです。
「東北の街道」「東北の峠歩き」・・・電子書籍ですか?。住んでいる周りの公立図書館には、はいっていませんでした。個人のwebは再検証する必要があるので、キーワードとして使いますがそれだけです。wikiをソースにして授業のレポートを書いたという笑い話もありますので・・・岩手県庁、盛岡市などの関連資料はwebで検索をおこないやすいですが、秋田、青森については・・・
国見峠越えが確かな道として使われてきた記録がある。 ・・・ 脚注の扱いで2次資料を引用した書籍(3次資料以降)でなく、「歴史の道調査報告書」に記載されている具体的な資料名について言及してください。県の発行している書籍でしたら都道府県立図書館で閲覧も可能です。角川の地名大辞典では資料が明示されないときは、「伝承として・・」と記述されています。
奥州街道や羽州街道にも劣らないほどの整備状況だったという。・・・ 幕府の道中奉行の直轄管理路線と、各藩の脇街道の管理路線を同等と記述されても比較にならないと思います。web上で見られる自治体史の該当項目について、巡検使については、藩または地元からの持ち出しで整備です。
名馬の産地であった陸奥国出羽国へは、・・・新庄市(山形県)のことですか? 、抽象的すぎる記述でしたので「公儀御馬買衆」に差し替えさせていただけいました。最初に秋田ありきで、記述するため記載内容がトンでも文章になっていることがあります。整合性を考慮して書き込んでいただだきたいものです。あと、失礼ですが道路についてどれほどの知識をお持ちでしょうか?私は自治体の道路台帳整備に関与したことがあるので基本的な文言は理解しているつもりですけど。--59.146.20.48 2012年3月21日 (水) 16:41 (UTC)[返信]
>「官公庁で発行している文書、市町村史(参考文書が明記された物)」の二次資料と考えます。・・ 見落としてました、MWEさんが記載した参考文献は2次資料ではありません。おおざっぱにいえば 当時の文書(1次資料)を資料にした市町村史は2次資料であって、それ資料とした場合、3次資料以降となります。資料の扱いについて勘違いなさってませんか? --59.146.20.48 2012年3月21日 (水) 23:37 (UTC)[返信]
「ソースの明示を求めている」ソースは脚注として付記した通りです。59.146.20.48さんの仰る「二次資料」以外を資料としてはいけないと言われているように聞こえるのですが、先に書いた通り、明らかに信頼に値しないでたらめな内容ならばともかく、記述の正確性・不正確性を検証できるよう出典を明記した上で加筆することに何ら問題はないと考えます。勿論、より良い資料に基づく修正は多いに行われるべきです。
「電子書籍ですか?」出版社名も発行年もISBNも明記してあるものにそう言われても……「東北の街道」「東北の峠歩き」とも一般書籍で、今でも買えます。
「幕府の道中奉行の直轄管理路線と、各藩の脇街道の管理路線を同等と記述されても比較にならないと思います」それこそ出典が必要ではありませんか? 59.146.20.48さんには信頼に値しないかもしれませんが、こちらの記述は出典を付けています。
「名馬の産地」引用元の「東北の峠歩き」では御馬買衆のくだりで仙北の馬市について記載があります。新庄は出てきませんが、国見峠(秋田街道)からは距離があるためかと思います。
ところで、何度も「秋田ありきで」と仰られていますが、具体的にどの記述をそのように思われているのでしょうか。戊辰戦争絡みを除けば何を問題にされているのか解りません。道路知識はあくまでも趣味の範囲ですので、参考資料の内容から逸脱しないように気を付けて記述していますが、本職の方からすれば半可通に思われるかもしれません。--MWE会話2012年3月22日 (木) 13:35 (UTC)[返信]

中立的な観点[編集]

>>戊辰戦争時には佐幕派の盛岡藩が倒幕派の久保田藩を攻撃し、国見峠近辺も戦場となった

>>Main|秋田戦争

久保田藩沿革より 当初は奥羽越列藩同盟に参加していたが、平田篤胤の思想をなぞる尊攘派が形成されていたこともあり、仙台藩の使者を斬ったうえ明治政府側に寝返った。

佐幕、倒幕と単純に色分けをした記載する必要があるか疑問です! 久保田藩の編集に関与されているようですが、原因を考えれば裏切り者ですから。
秋田県の記述のために、秋田街道を利用している感じがします。

--59.146.20.48 2012年3月21日 (水) 02:23 (UTC)[返信]

「古代より主に戦略の道として往来が盛んで」を受けての記述で、近代(恐らくは現代までの歴史で最後)の秋田街道に於ける軍事行動を書いたものです。盛岡藩軍が秋田街道を通って久保田藩領へ進軍した理由は両者が対立勢力(佐幕=同盟軍、倒幕=新政府軍)に属していたためで、「佐幕、倒幕」を書かない訳にはいきません。むしろ、同盟軍からの視点で久保田藩を「裏切り者」と称することの方が(本文にそう書かれた訳ではありませんけど)、中立的な観点に基づかない意見だと思います。
秋田街道は盛岡と秋田を結ぶ道であり、秋田県に関わる記述を行うのは岩手県に関わる記述を行うのと同様に当然のことです。--MWE会話2012年3月21日 (水) 11:50 (UTC)[返信]
それぞれの旧藩に地縁の持っている方々に色々な考え方が有ることを前提にしている書かれているのでしょうか。街道に関する記述を歴史に置換えているとしか読めない記述ですが、あえて戊辰戦争を持ち出さなければ、原因について記述する必要はありませんですけど、戊辰戦争を絡めている秋田の立場の正統性を主張しているとしか読めませんです。・・わたしの読解力の問題でしょうがw
MWEさんの記述は主語が秋田であって、道路に関して記述なのでしょうか?関連歴史でなく、道路について記述をお願いします。--59.146.20.48 2012年3月21日 (水) 16:41 (UTC)[返信]
「盛岡藩と久保田藩が戦った」としか書いていないのに正統性を主張していると言われても、困惑するばかりです。この文の主語は久保田藩(秋田)ではなく盛岡藩ですし、盛岡藩の進軍の事実を書いただけであってどちらかに寄った記述はしていません。街道がどのように使われたか、というのは街道の歴史の一部です。--MWE会話2012年3月22日 (木) 13:35 (UTC)[返信]
戦略上重要な道路であった、ということを示すのに戊辰戦争でも進軍路として使われていたことを示すのはありかな、と思いますが、記述としては「戊辰戦争時には盛岡藩軍の久保田藩領への進軍路となり、国見峠近辺が戦場となった」ぐらいじゃないですかね。現在の文はちょっと街道の記事としてはなに言ってるのだか分からない感じです。所属勢力については書かなくてもいいのではないかと。この記事にとっては瑣末だと思います。--水原紡会話2012年3月21日 (水) 17:02 (UTC)[返信]
なるほど、進軍・戦闘があったことが判れば充分ですね。御指摘ありがとうございます。--MWE会話2012年3月22日 (木) 13:35 (UTC)[返信]

区間に関して[編集]

>>秋田街道(あきたかいどう)は、盛岡城岩手県盛岡市)から国見峠を越えて久保田藩(秋田藩)領の六郷に至る生保内を結ぶ、奥羽山脈越えの街道。現在の国道46号国道105号などに相当する。

角川日本地名大辞典の 3.岩手県、5.秋田県の 秋田街道の記述について
3.岩手県 盛岡と秋田を結ぶ道路 ・・・ 当街道名は明治5年の道路改修の願書に認められる。(P58,59)
5.秋田県 仙北郡田沢湖町生保内より奥羽山脈中の仙岩峠を越え岩手県雫石町を経由し盛岡に至る街道(P58)

現在の国道での通称名は  仙岩トンネル
国道46号  「秋田街道」
- 国道431号交差 生保内
国道46号 「角館街道」
- 国道105号交差 角館
国道105号 角館街道
過去使われていた街道名を通称名としてつかっているため、「秋田街道」は、明治新道から生保内までの区間で、それ以遠は「角館街道(=生保内街道)」でしょう。

奥羽街道と羽州街道の接続を持って、秋田街道と主張しているMWEさんの根拠はなんですか?
現在刊行されている書籍の分類に沿っただけだと、根拠としては成り立ちませんよ・・・単に書籍の引用を二次資料と書いたら、他の方から相手にされなくまりますから(実際、マジレスするのがばからしくなりましたけど)

>>「ソースの明示を求めている」ソースは脚注として付記した通りです。
その脚注に書かれた書籍が資料として「適切か?」の検証はどなたかされましたか・・・紀行文の引用だけでは、資料としてなりたちませんよ。 --59.146.20.48 2012年3月27日 (火) 09:59 (UTC)[返信]

「奥羽街道と羽州街道の接続を持って、秋田街道と主張」そのような主張をした憶えはありませんが。ノート:生保内街道に書いた通り、「秋田側で言う生保内街道は国見峠を越えて盛岡領へ通じる道であること」と「盛岡側で言う秋田街道は国見峠を越えて秋田領へ通じる道であること」から両者を同一と看做したものです。ただ、これは発表済みの情報の合成ですので、角川日本地名大辞典という優位の資料が出てきた以上、修正されても異論はありません(ただ、岩手県版の記述は、秋田県側が生保内までとは言い切れませんが)。「現在の国道での通称名」は、あくまでも現在の道路の通称であって、本項目で記述している古代・近世・近代の道とは分けて考えるべきだと思います。ところでその通称名、出典は何ですか? はっきり定義されている資料があれば私も参照したいので。
『脚注に書かれた書籍が資料として「適切か?」の検証はどなたかされましたか』事前の第三者検証はしていません(したとして、本項目への加筆時に証明する手段はありますか?)。充分な信頼性があるものと私自身が判断して本項目へ加筆の上、Wikipedia:検証可能性で示されている通り、本項目を読んだ誰であっても「検証ができる」状態にするために出典を書いています。--MWE会話2012年3月28日 (水) 14:35 (UTC)[返信]
 国見峠 (岩手県・秋田県) の転送を解除して記述を始めました。重複項目は国見峠に転載後に削除します。
 街道の区間については両論併記を行いますが、出典を明記して変更を行う可能性があります。秋田県庁webの記述の中では角館で秋田街道が終点の物はありましたが、羽州街道に合流している記述が見あたりませんでした。
 [北東北のグランドデザイン ~自立・飛躍する“アジアの北東北”を目指して~ 平成17年9月2日 北東北広域政策推進会議]
 P8 【様々な文化が融合した歴史街道】 ○歴史街道を行く 秋田街道 :盛岡~国見峠~角館
 (脇往還であるため、羽州街道という正式名称はなく、地域性の強い諸街道の総称であり、そのなかで「秋田街道(佐竹街道)」と呼ばれた区間があるというwebはありましたが・・検証はしていません。)
 記載に不備がありましたら、またご指摘いただきたくよろしくお願いいたします。--59.146.20.48 2012年4月1日 (日) 08:40 (UTC)[返信]
お疲れさまです。週末に図書館で「岩手県文化財調査報告書 秋田街道」「秋田県文化財調査報告書 生保内街道」「同 角館街道」「角川日本地名大辞典 岩手県」「同 秋田県」を調査してきました。詳細はいずれ本文に反映しますが、秋田県側は特に時代ごとの道の連続性(どの経路が幹線でどれが脇道か)が何度も変わっているようで、一本の道の記事としてまとめるのが難しいと判断する結果になりました。例えば六郷〜角館は、中世にはむしろ後の羽州街道の本線に相当する幹線で、佐竹氏が南方支配や参勤の際に遠回りになることから幹線を大曲経由に移したため盛岡方面への道になった。大曲〜角館は、江戸時代には玉川の氾濫で安定しないため整備が進まなかったが、明治に入ってから六郷経由に代わって幹線化した、など。
秋田県内で「秋田街道」と称された区間の記述は見当たりませんでした(別件で、羽州浜街道の酒田以北の北行をそう呼んだ例がありましたが)。ですので国見峠・仙岩峠経由の道については、59.146.20.48さんの仰るように「岩手県側(県境まで、長くとも生保内まで)を秋田街道」とし、秋田県側の各路線は別の区分にするのが無難となりそうです(前述の通り時代による変遷が大きいのですが、文化財調査報告書に倣い「生保内街道(六郷〜角館〜生保内〜国見峠)」「角館街道(大曲〜角館)」として、時代ごとの区間は羽州街道も含めて重複記載するか{{Main}}を使う、が適当でしょうか)。調査の機会を与えて下さってありがとうございました。--MWE会話2012年4月2日 (月) 10:08 (UTC)[返信]