ノート:江戸

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「江戸」の範囲は時代によってだいぶ違いますよね。開府のころは、確かに「現在の東京都千代田区周辺の地域に当たる。」であったのだと思います。

江戸の歴史に詳しい方が、「江戸」の広がりを書いてくれるといいと思うのですが。秀の介 02:45 2003年9月18日 (UTC)

>その件についてですが、開府のころは、確かに「現在の東京都千代田区周辺の地域に当たる。」
であるとすると、五街道整備時の日本橋はどうなるのでしょうか。そうなると家康の江戸入城の頃と言うよりも、
それ以前(つまり太田道灌築城時)辺りではないでしょうか。


将軍家も大名ですか...江戸時代の大名の定義は、将軍の直臣のうち1万石以上の者、だと思っていたので、将軍家=大名となっていたのを削ったのですが。どうしてもということでしたら、大名のところの定義も整合性をとって直してみてください。203.165.12.56 17:07 2003年9月25日 (UTC)

徳川将軍家は幕府の主宰者であると同時に「800万石の大名」(領主)という言い方もされます。「大名」にはいろんな定義があるので「大名」の記事は整理する必要がありますね。るがこむ 17:35 2003年9月25日 (UTC)

確かにるがこむさんのおっしゃる通りなのですが、将軍は一般的な定義による「大名」ではない(一般の日本史事典や百科事典では「大名」の項を引くと、たいてい多様な意義があることを述べた上で「単に大名といった場合は江戸時代に将軍から1万石以上の領地を与えられた武家」云々と書いてあると思います)ので、203.165.12.56さんのように混乱されるのも、もっともなことだと思います。「一大名でもある~」の部分は、誤解を招きかねないことをあえて押し通してでも必要な表現ではないのではないでしょうか。 Safkan 21:56 2003年9月25日 (UTC)

「一大名」という表現に違和感があるなら、「一封建領主」でどうでしょう? るがこむ 22:12 2003年9月25日 (UTC)

そうですね、私は、そちらのほうが良いと思います。いずれにせよ大名の記事は定義を書き改める必要がありますね。Safkan 22:55 2003年9月25日 (UTC)


開府のころは、確かに「現在の東京都千代田区周辺の地域に当たる。」とのことですが、確か「武蔵国豊島郡江戸庄」といっている「本郷」という地名が、引っ掛かります。つまり、東京都千代田区周辺ではないのではないかと思うのですが?

220.144.138.69 08:49 2003年10月4日 (UTC)

本郷というと文京区の本郷ですか? いつだったか、本郷三丁目駅の近くで「もともとはこのあたりが江戸の北限と考えられていた」云々というような案内看板を見た記憶がありますが。Safkan 09:46 2003年10月4日 (UTC)
「本郷もかねやすまでは江戸の内」ですね。Tan--202.214.30.9 2006年5月30日 (火) 04:09 (UTC)[返信]
ありがとうございます。そうなると、東京都千代田区周辺の地域については再考の余地があるのではないでしょうか。また、「朱引」より上の地域で「墨引」というラインがあります。それであるともっと広くなると思います(いわゆる十里四方所払いの範囲)。220.144.138.69 10:08 2003年10月4日 (UTC)

靖国神社、乃木神社など、明治以降との判断で削除しましたが、それでも入れておいた方が良かったでしょうか。必要と思われるなら、再度書き込んでください。東京の記事との違いを明確にというつもりだったのですが。Mishika 05:31 2004年6月15日 (UTC)


加筆方針[編集]

江戸娯楽論、経済論、犯罪論など。武蔵野武蔵 2004年7月31日 (土) 06:09 (UTC)[返信]

とりあえず現状ではリストというかアイデアの箇条書き的な部分が目に付くので、箇条書きではない江戸の各町の概観と、文化史の概説が欲しいですね。Safkan 2004年7月31日 (土) 23:43 (UTC)[返信]

「世界一の人口と識字率」の部分で「1971年には…」とありますが間違いだと思われます。 私には何年に100万人を超えていたのかはわかりませんが…。

江戸の人口について大幅に加筆しました。1634年に148,719人、1657年に285,814人とする 統計がありますが、これは小宮山氏が『江戸旧事考』の中で戸数などを元に計算したもので、採用しませんでした。 一方三田村鳶魚氏の著作「江戸の女気質」に登場する人口統計のソースが判らないので 載せていません。例えば全国一斉の人口調査が始まる前の享保四年には、 総数534,633人(男389,918人,女144,715人)の人口があったことになっていますし、 天保八年の記録も三田村氏の著作以外見つかりません。 他の統計については、かなり信頼性の低いのまで載せました。Orichalcum 2007年11月30日 (金) 18:28 (UTC)[返信]

江戸の旧事考は二次史的な一次史料として扱うには統計内容に問題がありすぎるので、除外しました。

なお千草の花、世説海談, 松の寿、寛延奇談、椎のみ筆、柳烟雑記、延享世話、護花園随筆、甲子夜話、月堂見聞集に関しては内容をチェックする必要があるかも知れません。Orichalcum 2008年1月1日 (火) 10:02 (UTC)[返信]


概要の項に「1889年、市制施行で東京市となった。」という文章がありますが、これだと、その前の文脈からの続きで「東京府が東京市に変わった」の意味に一瞬捉えられかねません。素人の私の理解では「東京府の中に東京市が(東京府と郡区の中間の行政組織として)設置された」ということではなかったかと思うのですが(確信はないのですが)、もしそうであれば、誤解されにくいような文章表現を工夫できないものでしょうか。もし私の理解のし方が間違いであったら、ゴメンナサイです。--Julis 2009年11月26日 (木) 07:45 (UTC)[返信]

1800年頃の世界各国の都市人口について[編集]

自分が江戸の人口をあくまでも「18世紀初頭には100万人を超え、世界一ないしはそれに匹敵する規模であったと推定されている。」という表記に済ませ、他の都市人口との比較を載せたくない理由は、最近の海外の著作(Chandler, Modelski)で、江戸の人口が世界一とされていないからです。実際に世界一とされているのはどちらも北京です。

まず、比較されているロンドンとパリの人口ですが、1801年というのは英国、フランスで最初の国勢調査が行われた年で、それによると、1801年のパリの城壁内(面積34.5 km2)の人口は、54万6856人です。一方当時のロンドン市(City of London)(面積2.7 km2)の人口は、公的には12万8129人です。ロンドンの人口を86万4845人とする統計は、後世の学者がある一定の人口密度以上の市街化地区(約90 km2)の人口を合計したもので、郊外に広がった幾つかの地区人口が加わります(ウェストミンスター市4万6099人、ホルボーン8万4895人など)。

これらに対し中国は当時都市単位の統計はなく、90万人は完全に推定人口です。1800年頃の北京は城壁内が92.5 km2で、これに推定人口密度をかけ、郊外へ広がった市街地区をどう足すかで推定人口が変わります。

それはともかくとして、実際にある年代で区切って各地の都市人口を推定し、比較している文献は、チャンドラーの"Four Thousand Years of Urba Growth"とモデルスキーの"World Cities"しか私は知りません。それらによる推定人口は以下の通りで、特にチャンドラーの方は江戸の人口を明らかに過小評価しています。しかしながら、チャンドラーが過小評価していると批判されているのは、中国の歴代都市人口も同様で、例えばローランド・フレッチャーは江戸と北京の人口をともに100万~150万人と推定しており、結局どの推定人口を採用するかで、江戸の相対的な規模の評価が変わるわけです。東京都のサイトでは北京の人口として90万人を採用しておりますが(これは鷹見安二郎や鷹見安二郎の著作でも引用されているが、元文献が何か示されていない)、これはむしろ北京の人口としては過小評価に近いもので、江戸の人口として100万やそれ以上を採用するのなら、モデルスキーやフレッチャーの評価する北京の人口を比較として採用するべきであり、結局当時の江戸の人口は北京と同程度という評価が妥当となります。

都市 Chandler (1987) Modelski (2003)
北京 1,100,000 1,100,000
ロンドン 861,000 1,000,000
広州 800,000 1,000,000
江戸 685,000 1,000,000
イスタンブル 570,000 100万未満
パリ 547,000 100万未満

>江戸の人口が1837年に128万だったという説も有力です。

本記事の中でも以前まとめておりますが、この数字は大田南畝の『半日閑話』、岩瀬京山の『蜘蛛の糸』などの日記の中で、1787年の江戸の人口として128万5300人と伝えていることによりますが、一方で三田村鳶魚は1837年の人口として128万4815人の数字を引っ張ってきております。これらの数字について、小宮山綏介などは江戸の人口の実数だと考えたようですが、幸田成友は数字の内訳や年代がいい加減である点など指摘し、数字として全く信頼できないと結論しています。

以上により、「江戸が世界最大の人口を有する都市であった可能性が高い」という指摘は正しいものの、比較する都市人口は推定者がばらばらであり、本記事には必要ないものと考えます。Orichalcum 2010年9月11日 (土) 06:48 (UTC)[返信]

幸田成友は数字の内訳や年代がいい加減である点など指摘し、数字として全く信頼できないと結論しています。

この論理展開が理解できません。数字の内訳や年代がいい加減であるというなら、なぜ128万人という数字が複数の文献に登場しているのでしょうか。また、90万人という北京の推定人口が過小評価された数字であるという主張の根拠が示されていません。--侍情報員 2010年9月14日 (火) 17:52 (UTC)[返信]
>この論理展開が理解できません。数字の内訳や年代がいい加減であるというなら、なぜ128万人という数字が複数の文献に登場しているのでしょうか。
まずこの128万人という数字は、江戸の総人口として雑記に載っているわけではありません。「大飢饉や大地震が起こり、流民や無宿の者が江戸に殺到した。そこで救済策として金と食料などを配ったところ、男58万7800人、女69万弱人弱がやってきた。」「救済策として金と食料を配ったが、その時の江戸の人口は128万人で、これには武家やその他特殊階級の人口が含まれない」といった感じの内容で登場するものです。このような信じがたい被救済民人口が、武家を含めた実際の江戸の人口を反映しているのではないかというのは、むしろ小宮山綏介の独自解釈です。
でこの被救済民人口ですが、女性の人口が男性の人口を10万人上回っています。当時の町方の公式な数字では、男の人口が女の人口を大幅に上回ることが明らかであり、詳細不明の武家人口を足しても男女比を逆転させることは無理です。また違う年代に対してほぼ同じ構成人口で記録され、同じ文脈で登場する計外人口まで男女や構成人口が酷似ています。ということでこの128万人を含め、これらの雑記に登場する人口は、幾つかのいい加減な資料を子引き、孫引きする形で作成されたもので、信用できないものだと、幸田成友は結論しています。
>また、90万人という北京の推定人口が過小評価された数字であるという主張の根拠が示されていません。
北京の人口についてですが、ジョゼフ=ニコラ・ドリルの"Description de la vilel de Peking"(1766年)には、当時北京の城壁外に30 km2ほどの市街地が形成されている様が、簡単な北京の市街図とともに図示されているそうです。チャンドラーの場合、城壁外の市街地の人口密度を70人/haと仮定し、城壁内(92.5 km2、70万人)と城壁外(30 km2、20万人)を足して約90万人と推定しています。1800年頃の推定人口110万人は、おそらく1845年の北京の人口164万8千人と、この1750年頃の推定人口90万人を補間して求めたものだと思います。
で、例えばモデルスキー編"Globalization as Evolutionary Process"で、チャンドラーの人口推定手法として批判されている点は、近世以前の中国の都市人口密度を城壁内でも75人/ha(内陸)から100(海岸)人/haと低く見積もっている点です。チャンドラーが中国の都市人口密度を低く見積もる根拠として、「中国人は1階建ての居住区に拘る」という誤解を挙げています。
実際の当時代の証言としては、George Macartneyの"A complete view of "(1798年)によると北京はロンドンに比べて市街地が4/3倍の広さがある。James Playfairの"A system of Georgraphy" (1808年)によると、北京の人口は150万人。George Timkovskyの1827年の旅行記によると、北京の人口は130万人で、いずれも同時代のロンドンの都市規模を軽く上回っていたことが示唆されています。チャンドラーやモデルスキーによると、おそらくアヘン戦争の前後には、ロンドンが北京を人口で抜いて世界一になったとしています。参考までに中国の都市人口の推定値の違いをまとめておきます。
都市 西暦 Chandler (1987) Modelski (2003)
長安 700 800,000 1,000,000
開封 1100 442,000 1,000,000
開封 1200 100,000 1,000,000
杭州 1200 255,000 1,000,000
杭州 1300 432,000 1,500,000
南京 1400 487,000 1,000,000
北京 1300 401,000 1,100,000
北京 1500 672,000 1,000,000
北京 1600 706,000 1,000,000
北京 1800 1,100,000 1,100,000
広州 1800 800,000 1,000,000
私は別に江戸が人口世界一であったは否定しませんし、むしろ18世紀中頃は実際に江戸の人口が世界一であったと思っています。ただ比較しようにも、当時の推定都市人口はどこも曖昧で、結局都合のいい数字を抜き出して比較しているように見える東京都の数字も、江戸の人口を低く見積もっているチャンドラー("Four thousand years of urban growth"(1987年))の数字も、アユタヤの人口を過剰に見積もっているモデルスキー("World cities -3000 to 2000"(2003年))の数字も、広州の人口を過剰に見積もっているシャワーズ(World facts and figures (1989年))の数字も、引用するには不適切です。思い切って全部引用するという手もありますけど。Orichalcum 2010年9月15日 (水) 07:12 (UTC)[返信]

まずこの128万人という数字は、江戸の総人口として雑記に載っているわけではありません。「大飢饉や大地震が起こり、流民や無宿の者が江戸に殺到した。そこで救済策として金と食料などを配ったところ、男58万7800人、女69万弱人弱がやってきた。」「救済策として金と食料を配ったが、その時の江戸の人口は128万人で、これには武家やその他特殊階級の人口が含まれない」といった感じの内容で登場するものです。

この記述はどの文献に登場しているのですか?『半日閑話』ですか?『蜘蛛の糸』ですか?それとも、他の文献ですか?128万人という数字が出てくるすべての文献で内容が同じなのですか?また、Orichalcumさんの発言によると、北京の人口はすべて外国人旅行者の推定値ですが、これは当時の中国の文献から導き出された推定人口と整合性があるのですか?1808年に記された"A system of Georgraphy" において150万人とされているにもかかわらず、時代が下り人口が増えているはずの1827年に記されたGeorge Timkovskyでは130万人と、人口が減少しているのはどう考えてもおかしいわけですが。江戸時代の江戸の人口については、外国人旅行者の推計値だけでなく、幕府の公式統計や民間の記録など、さまざまなデータから検証されていますが、Orichalcumさんが挙げる北京の推計人口は、それよりはるかに信頼性が乏しいと思います。--侍情報員 2010年9月15日 (水) 15:03 (UTC)[返信]
>この記述はどの文献に登場しているのですか?『半日閑話』ですか?『蜘蛛の糸』

ですか?それとも、他の文献ですか?

『半日閑話』の記載は以下の通りです。なお「日本財政経済史料」に収録の『乙巳雑記上』は、より簡略化した内容です。
天明六年丙十月廿八日改
 此度御救に付改人別江戸町数
一 弐千七百七拾余所 但新地寺院共 家数 一 弐拾万八千余軒 但表間口計
人数 一 百弐拾八万五千三百人
内 五拾八万七千八百余人 男 六拾九万五百余人 女 三千八百四拾人 座頭
  壱万四千五百余人 吉原人数 内 八千弐百人 男 六千三百人 女
   此内 弐千五百人 遊女但禿共
外 五万弐四百三拾人 出家 七千弐百三十余人 山伏 三千五百八拾余人 神主
  御金 弐万両 御米 六万俵 大豆 六万俵
 右之通惣町中え被下之
 但此御金は御救被下、壱人前三匁九分宛之由、家来之分之者不被下候由。
一 御米は御払にて壱人前六合程宛被下、相場は御張紙之通五拾弐両之割にて代銀御取立有之趣な
り。五六日以前より初り追々御払有之趣、以後も追々有之趣。
  但渡し方は町々自身番所にて割渡に相成候由。
『蜘蛛の糸』の記載は、天明七年について以下の通りに記載されています。
同月廿日の蜂起より。廿一日。廿二日。廿三日。廿四日まで。江戸中諸商人。戸を鎖して業をせず。之に依り米は更なり。諸人日用の品に困る。廿五日初めて戸を開く。町奉行に公命ありて。御救被下。(曲淵甲斐守。牧野大隅守)。四日市に小屋掛り。施行場とす。一人に玄米二合五勺。豆二合五勺。銀三両二分づヽ。小兒七歳以上迄。御救被下。此時町家の人數を検戸ありしと。ある記に。
 町数二千七百七十余町
 表店二十万八千余家
市中總人数百二十八万五千三百人
  内
男 五十八万七千八百人 女六十九万七千五百人
座頭 三千八百四十余人
吉原人数 一万四千五百余人(内遊女禿二千五百人)
出家 五万二千四百三十人 一向宗の女除く
山伏 七千二百三十人 妻帯の者の女除く
神職 三千五百八十人
 右の外御用達町人。能役者。諸家の家業町住の者は記さず
『浮世の有様』については、以下の通りです。
江戸にて十月一ケ月に行倒人 百五人・捨子 五十三人・駈落 十八人・盗賊 百五十七人、湯屋著逃 数不知。 市中表通計りにて、家数凡て二十八万八千軒程有り。此外に御救米下され候人数百二十八万七千八百人程、此内男五十八万九千八百人。女六十八万八千人。 猶外に三千八百四十四人、座頭。三千五百八十人、神主。七千二百三十人、山伏。五万四千八百五人、出家。新吉原町人数、一万五千七百人程、内男八千二百人、女七千五百人、遊女二千五百人。
右は昨申年十月の事にて、当年の事には非ず。今年は定めて大層なる事なるべし。 Orichalcum 2010年9月15日 (水) 16:19 (UTC)[返信]
>また、Orichalcumさんの発言によると、北京の人口はすべて外国人旅行者の推定値ですが、これは当時の中国の文献から導き出された推定人口と整合性があるのですか?1808年に記された"A system of Georgraphy" において150万人とされているにもかかわらず、時代が下り人口が増えているはずの1827年に記されたGeorge Timkovskyでは130万人と、人口が減少しているのはどう考えてもおかしいわけですが。
その通りです。これらの数字は旅行者の推定値で信頼できないので、そのため面積×人口密度という手法が人口学者によって採用されるわけです。当時清朝では戸籍が作られていましたが、都市単位の統計は残っていません。ただし、1845年の164万8千人は公的な記録して残っている戸籍人口です。
>江戸時代の江戸の人口については、外国人旅行者の推計値だけでなく、幕府の公式統計や民間の記録など、さまざまなデータから検証されていますが、Orichalcumさんが挙げる北京の推計人口は、それよりはるかに信頼性が乏しいと思います。
そもそもこの項目の人口の詳しいデータと、過去の研究者の解釈をまとめたのは私です。最初私も東京都のサイトに掲載されている人口データから、江戸が世界一であることを強調するための比較の表をまとめようと、数年前に江戸の人口の記録をまとめました。過去の研究者による推定人口も、実際にそれらの論文ほぼ全てに目を通した上で簡略化してまとめており、江戸の推定人口がいかに曖昧なものであるかも把握しているつもりです。
また海外の本や論文にも目を通してみれば判りますが、実際に英語、フランス語で出版されている都市人口の本や論文では、北京の方が江戸よりも1800年の時点では人口が多いと判定されています。Chandlerは、1700年に関しては、江戸の方が北京よりも人口が多いと判定していますが、一方でイスタンブルの方が江戸よりも人口が多かったろうと判定しています。貴方が北京の推定人口が信用できないと言っても、これらの本には具体的な参考文献と計算方法がある程度載っており、実際に研究者が論文を書く場合には、東京都のサイトに載っている元文献も明かされていない北京の推定人口なんかよりもよほど信用できるものです。Orichalcum 2010年9月15日 (水) 16:10 (UTC)[返信]

また海外の本や論文にも目を通してみれば判りますが、実際に英語、フランス語で出版されている都市人口の本や論文では、北京の方が江戸よりも1800年の時点では人口が多いと判定されています。Chandlerは、1700年に関しては、江戸の方が北京よりも人口が多いと判定していますが、一方でイスタンブルの方が江戸よりも人口が多かったろうと判定しています。貴方が北京の推定人口が信用できないと言っても、これらの本には具体的な参考文献と計算方法がある程度載っており、実際に研究者が論文を書く場合には、東京都のサイトに載っている元文献も明かされていない北京の推定人口なんかよりもよほど信用できるものです。

まさにその統計こそが信憑性に乏しい資料を基に推計されているでしょう。北京の人口に関する具体的な参考文献は欧米の中国旅行者の推定値で、計算方法は推定人口密度と都市の面積を掛け合わせた数値だということですが、そもそも推定人口密度はどのように計算されているのでしょうか。チャンドラー、モデルスキー両者の著作は、北京の人口に関する一次資料ではありません。国際的な学者であるから信用できるとおっしゃいますが、チャンドラー、モデルスキー両者共、中国語、日本語の一次資料に基づいた検証を行っていない以上、信用できるとはとても言えません。少なくとも128万人という数字は、江戸時代の民間記録に存在し、東京都が公式に江戸時代の人口として採用している以上、Wikipediaに載せるべきでしょう。--侍情報員 2010年9月15日 (水) 17:59 (UTC)[返信]

Orichalcumさんは欧米における評価の方が信頼できるとお考えのようですが、欧米の学者に日本語・中国語を理解できる人はほとんどいません。チャンドラー、モデルスキー共、北京の戸籍や江戸の人口に関する資料に基づいて人口を算出してはいないはずです。こんなこと

チャンドラーの場合、城壁外の市街地の人口密度を70人/haと仮定し、城壁内(92.5 km2、70万人)と城壁外(30 km2、20万人)を足して約90万人と推定しています。1800年頃の推定人口110万人は、おそらく1845年の北京の人口164万8千人と、この1750年頃の推定人口90万人を補間して求めたものだと思います。

で、例えばモデルスキー編"Globalization as Evolutionary Process"で、チャンドラーの人口推定手法として批判されている点は、近世以前の中国の都市人口密度を城壁内でも75人/ha(内陸)から100(海岸)人/haと低く見積もっている点です。チャンドラーが中国の都市人口密度を低く見積もる根拠として、「中国人は1階建ての居住区に拘る」という誤解を挙げています。
いってるくらいですから。市内全域で人口密度が一定であることもありえないし、人口密度の算出方法も単なる推測じゃないですか。逆に、モデルスキーは何を根拠に北京の人口を算出しているのですか?--侍情報員 2010年9月15日 (水) 18:17 (UTC)[返信]
>少なくとも128万人という数字は、江戸時代の民間記録に存在し、東京都が公式に江戸時代の人口として採用している以上
違います。東京都統計協会が採用している数字は110万人であり、128万人という数字を江戸の人口として採用していません。110万人という推定人口は、関山直太郎、内藤昌といった学者が採用したものです。
また、チャンドラーらの推定の根拠がより曖昧であったとしても、東京都統計協会が採用している北京の90万人という推定人口が、計算方法が明示していない点でもっと曖昧であることには変わりありません。そもそも東京都統計協会のサイトにせよ、「なお、以下の数値は推定であり、目安程度に考えてください。」と断っています。私にはなんで貴方が北京の推定人口として少なめに見積もっている値を引用した上で、「江戸の方が人口が多い」という手前味噌な記述をしたがるのかが理解できません。「江戸が世界一の人口を有していたと考える学者は多い」「しかしそうではなかったと考える学者も、日本でさえ少なからず居る」というのが事実なのですから。
1801年のロンドンの国勢調査人口にせよ、実際には当時City of Londonと認識されていた地域の人口は12万8129人に過ぎず、7人/エーカー以上の人口密度を有する地域の人口を合計して86万4845人、Inner Londonに相当する地域の人口が95万9000人、Greater Londonに相当する地域の人口が111万7000人です。
>国際的な学者であるから信用できるとおっしゃいますが、チャンドラー、モデルスキー両者共、中国語、日本語の一次資料に基づいた検証を行っていない以上
それを言い出すと、すべて一次資料に基づいた検証だけを行い、各時代各地域の都市人口を推定した歴史人口学者など存在しません。大体学者が文献だけに頼って推定人口を出すはずがありません。
それにチャンドラーの江戸の都市人口の推定値は過少評価ですが、推定にあたり関山直太郎の日本語の著作を読み、その数字を挙げています。チャンドラーの他の近代以前の日本の推定人口の根拠の項目を読むと、個々について日本国内の図書館に資料の問い合わせを行っており、より根本資料に当たろうとしていることは明白です。日本の他の推定都市人口については近代以前の日本の都市人口統計の方にまとめてます。
モデルスキーの方は、中国、日本の都市人口については完全に他の研究者の値をそのまま引用しています。江戸の人口は19世紀中頃に120万人とする推定値から1800年頃を100万人としているようです。
>Orichalcumさんは欧米における評価の方が信頼できるとお考えのようですが、
そんなことは一言もいっていません。私が一番納得している説は、今井登志説(社會經濟史學 2巻(7号), 693頁-706頁)の、「もっとも多いときに、江戸の人口は百万を越したこともあるとするのがよいだろう」であり、チャンドラーの80万人を切る説には同意しかねます。ただそれとは別に、北京の人口についてはそもそも貴方が何度も挙げる数字は、簡単な根拠すら記述されていないし、日本人が推定したものなのか、中国人が推定したものかはっきりしません。
中国人の研究を挙げるなら(超文林・謝淑君『中国人口史』)、『清実録』によると1800年の清の戸籍人口は2億9523万7311人です。一方河北省の人口は、1791年に2369万7000人、1845年に2285万9000人です(100の位で四捨五入されているのは原資料ママだそうです)。となると中国人の学者としては、当然1800年頃の北京の人口も、1845年の北京の人口である164万8千人と大して変わらない150万人~200万人を挙げるわけですが、それを北京の人口として採用しますか?
>市内全域で人口密度が一定であることもありえないし、人口密度の算出方法も単なる推測じゃないですか。
ほとんどの都市について人口が推定なのは当たり前のことです。大体江戸ですら、武家の人口の見積もりに諸説あり、70万人~150万人と推定人口に開きがあるわけです。北京も中国人の説を加えるのなら、70万人~200万人、広州60万~200万人となり、江戸の人口をはるかに上回る人口がしばしばなされているわけです。ただ推定人口の信頼度には差があり、確かに国勢調査の始まった1801年のロンドン、パリの人口はそれなりに信用でき、人別改により町方等に関しては詳細な記録が残っている江戸はまあまあ信用でき、人頭税の廃止により総戸籍人口や省別戸籍人口はある程度信用できても、都市単位の人口調査が余り残っていない北京の人口は余り信用できません。でも信用できないいうのなら、北京のどの推定人口も数値化して比較対象として挙げるべきではないというのが正しい対応です。Orichalcum 2010年9月15日 (水) 19:23 (UTC)[返信]

>違います。東京都統計協会が採用している数字は110万人であり、128万人という数字を江戸の人口として採用していません。110万人という推定人口は、関山直太郎、内藤昌といった学者が採用したものです。

確かにそうですね。間違えておりました。

>それを言い出すと、すべて一次資料に基づいた検証だけを行い、各時代各地域の都市人口を推定した歴史人口学者など存在しません。大体学者が文献だけに頼って推定人口を出すはずがありません。

あなたがあげられた出典では、当該国(中国)が作成した一次資料の裏付けなく推定人口が算出されています。根拠が薄弱な外国人旅行者の記録という一次資料に基づいて人口密度が算出され、それに都市面積を掛け合わせて推定人口が割り出されています。これが東京都統計協会が出している90万人という数字に比べてどれだけ信憑性があるのかということです。

>となると中国人の学者としては、当然1800年頃の北京の人口も、1845年の北京の人口である164万8千人と大して変わらない150万人~200万人を挙げるわけですが、それを北京の人口として採用しますか?

お好きにどうぞ。しかし、ここは江戸の記事なので、あくまで江戸の人口に対する比較対象として書くべきでしょうね。

>確かに国勢調査の始まった1801年のロンドン、パリの人口はそれなりに信用でき、人別改により町方等に関しては詳細な記録が残っている江戸はまあまあ信用でき、人頭税の廃止により総戸籍人口や省別戸籍人口はある程度信用できても、都市単位の人口調査が余り残っていない北京の人口は余り信用できません。でも信用できないいうのなら、北京のどの推定人口も数値化して比較対象として挙げるべきではないというのが正しい対応です。

ならば最初から北京の人口だけを消せばよかったんです。いずれにせよ、最初に

ロドリゴ・デ・ビベロによって1609年ごろに15万人と伝えられた江戸の人口は、18世紀初頭には100万人を超え、世界一ないしはそれに匹敵する規模であったと推定されている。

と書かれていた以上、その世界一の根拠として他の都市の人口を比較対象にあげるのは当然です。--侍情報員 2010年9月16日 (木) 10:04 (UTC)[返信]

分割提案[編集]

「江戸の人口と識字率」の項が膨大な量になったので、単独記事への分割を提案します。--HI 2010年10月22日 (金) 16:13 (UTC)[返信]

江戸の人口の項目を某大にしてしまった張本人ですが、人口に関する部分について概要以外を「江戸時代の江戸の人口」という独立項目にしましょうか?
識字率に関しては、真面目に検証している論文を読む限り、どのレベルを識字と判断するか等、具体的な統計が存在しないため、あえて独立の項目にするほどの情報がありません。Orichalcum 2010年10月23日 (土) 16:25 (UTC)[返信]
確かにそうですね。明治の部分も加えた人口に関する項目のみを独立させるべきですね。--HI 2010年10月24日 (日) 01:44 (UTC)[返信]

人口に関する部分を江戸の人口に分割しました。--HI 2010年10月29日 (金) 01:18 (UTC)[返信]