ノート:日大紛争

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「古田重二良」の一部を転記する提案[編集]

古田重二良」のうち、「日大紛争の背景」の節を、当記事に転記することを提案します。「日大紛争の背景」は、古田重二良の経歴や活動ではなく、文字通り日大紛争の背景の記述に終始しており、これは古田重二良の解説としては不必要です。Wikipedia:ページの分割と統合では、統合分割すべき場合として「見出し語の解説としては不要な記述だが、百科事典の情報としては有用な場合」が挙げられています。よって、上の通り、「古田重二良」からの一部転記を提案します。--Ethanol 2011年8月5日 (金) 13:24 (UTC)[返信]

紛争前の運動[編集]

以下の記述は、日本大学における紛争前の運動についての記述です。2011年8月に加筆されたものですが、文意が不明瞭なのと、出典がない点(小熊英(2009)からは確認できません)から、9月に私のほうでコメントアウトしました。長期に渡ってコメントアウトにしておくのは不適切ですので、ノートに転記します。

学生運動として日本共産党の日大細胞として三島予科闘争がおきた。日本大学の建学の精神と学風と伝統から私学連に加盟したが、左翼学生運動・安保運動の全学連には加盟せず日本大学は学生の政治活動を制限した。安保闘争に参加した学生に対して永田総長、古田会頭は不参加を呼びかけて、日大学部祭で学生自治会は許可制度から届け出制度にマスプロ教育改善を求めた。自由な学生自治会活動・政治活動をもとめて日大紛争の芽要因となった。

復活のさいには出典の明示おねがいします。--Ethanol会話2012年3月29日 (木) 08:56 (UTC)[返信]

9・30全学集会[編集]

以下の記述は、「「大衆団交」の開催と挫折、運動の終息」の項の記述です。出典不明かつ意味が不明瞭であるため、修正が必要と考えます。

9月30日当日、日本大学当局の主催の形式が取られた「全学集会」は、床にヒビが入るほどの大入りの両国講堂で開催された。当初2時間の学生らはヘルメットやゲバ棒の持ち込みを禁じられたが、日大側が2時間までとしていた集会は12時間にも及んだ。

--某人物会話2022年10月7日 (金) 23:14 (UTC)[返信]