ノート:北陸本線

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年表の記述について[編集]

年表の記述についていくつか、確認したいこと、申し上げたいことがあります。
まず、北陸トンネル開通時の旧線の件ですが、

  • 1962年6月9日 早朝上り216列車を以て下り線線路付け替えのため敦賀~杉津~今庄間(19.3km)廃止。以降終日新線を暫定使用。運行は旧ダイヤに基づき、敦賀駅で時間差調整された。

とありましたが、ソース(情報源)を教えていただけないでしょうか。6月9日から新線で営業運転が始まったということは、北陸トンネルの開通日は本当は6月10日ではなく6月9日だということでしょうか(もちろん営業開始日で試運転等は除きます)。北陸トンネルの開通日を(暫定でも)6月9日としている資料は当方では見つけられませんでした。念のためどの情報に基づくものか確認したいのですが。 なお、大桐駅跡の碑には6月9日廃止と書かれているようですが、これは営業最終日の意味かと思います。210. 2006年2月22日 (水) 22:40 (UTC) 署名追加210. 2006年2月26日 (日) 21:18 (UTC) 次に糸魚川~直江津間の件ですが、[返信]

  • 1969年9月29日浦本~有間川間新線切り替え複線化。能生、筒石、名立、各駅移転。
  • 1969年10月1日 谷浜~直江津間の郷津駅廃止。谷浜~直江津間新線切り替え複線化。糸魚川~直江津間直流電化。全線複線電化完成。
(備考:浦本〜直江津間の公式上の新線切り替えに2日のタイムラグがあるのは下り線新旧分岐点の線路付け替え、SL/電化切り換えの技術上の手間がかかる為と思われる。上り線は新線切り替え日より前もって暫定通行するのが可能だが、新線内をSLが通行することがあったのかディーゼルもしくは電気機関車が牽引したのかは資料がなく不明。SLが長大トンネル内を通行するのは難しかったかもしれない)

とありましたが、以下の

いずれの資料を見ても、浦本~有間川間・谷浜~直江津間の複線化・新線切り替えと糸魚川~直江津間の電化は同日の1969年9月29日になっています。そして10月1日には新線切り替えに伴う営業キロの改定が全線にわたって行われています。実際の新線切り替え日と営業キロ改定日が異なるのはままあることでこの時もそうではないでしょうか。
あと、備考についてはやや執筆者の憶測が感じられるのでこのままでは百科事典の記述としてはあまりふさわしくないと思います。同日切り替えだとこの備考の考察は無意味になります。210. 2006年2月22日 (水) 22:40 (UTC) 署名追加210. 2006年2月26日 (日) 21:18 (UTC)[返信]
それから、結構いろいろお詳しいようなので、このページだけではなく関係する駅や施設のページにも是非加筆してください。210. 2006年2月22日 (水) 22:40 (UTC)[返信]

1.こんにちは、加筆させていただいてる者です。ソースは鉄道ファン1962年8月号です。うろ覚えなので後で読み直してきちんと清書いたします。
旧線は9日の朝、始発数本を走行させた後、旧線と下り線が交わる地点で突貫工事で付け替えたようです。その写真が載ってるのですがアップするわけにはいかないので...。
最終列車を見送った後、杉津駅員がレールに御神酒をかけてみんなで杯をかわしてるフィルムがアサヒ報道写真として残っています。これもビデオとして見ましたが後ほどおしらせします。(追記:「鉄路の昭和史第五巻」というビデオに収録)
北陸トンネルの正式開業は十日でその日に祝賀式典を催したのですが運行は九日からであった、というわけです。なので特急・急行が旧線を通過したのは八日が最後ということになります。
記事の中には九日の最初の上り特急に修学旅行団体が乗っていたという記述がありました。最終列車下り216は各駅・各信号場を通過する度にその駅・信号場の備品や当直駅員の荷物を積み込んでは走っていったそうです。ちなみに九日も雨です。宮脇俊三氏のムック本「廃線跡郷愁」には黒岩保美氏の旧線の写真が載っていまして「九日」の日付になってますが、その写真は晴れていますので明らかに八日以前に撮影されたものだということがわかります。公式に出版されたものでもこのように間違いがあります。後ほど、記載します。

1.そうですね。削除の方向でご検討ください。資料に関しては私は宮脇俊三氏のムック本「廃線跡幻想」をテキストにしました。それも後ほど。
書籍やネット上の記載は何分、昔のことなのでみなさん微妙に食い違いがあるように思います。例えば杉津線のトンネルは実際は12カ所なのに出版された時点で11カ所なのをそのまま11カ所あったことにされてたり、とか。数年前にもう一カ所つぶされて現存するのは10箇所のようですが。
2.それと、資料の件ですが、土木工事が終了した日時と鉄道保線区の作業日時は必ずしも一致しないと思われます。大工と左官が同時作業・一斉終了が出来ないように、インフラ設備工事は土木工事が終了してからだと思いますので。
おそらく作業順序は路盤整備→インフラ敷設→新線切り替え→実践走行→正式開業と思われます。
杉津線の新線切り替えが真夜中終電車後を避け、通勤時間をやり過ごした直後に線路付け替えを行ったのは付け替え地点の実践走行・点検整備確認に時間的余裕を与えたためかもしれません。そこで異常が出れば正式開業のゴーサインは差し止め、という手順で。 なのでタイムラグはその当時はよくあったのかもしれませんね。
3.資料蒐集に関してですが、鉄道関連サイト以外に案外、拾い物はあるように思います。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/DBfpa.html 福井県文書館 目録データベース
この中の「福井県史』通史編全6巻」とか面白いです。新潟県の災害記録とかにも北陸線の鉄道事故の記録がありました。
あと、「少年サンデー」とか、その時代の雑誌・新聞に載ってるこぼれ話ですね、これはなかなかネットに記載されないので。
一番確実なのは国立図書館で当時の資料を漁ることかもしれません。私は地方在住なのでいけませんが。
こぼれ話のひとつとしてあげれば、深坂新線開業直前の話として刀根-疋田区間でヤスデが異常繁殖して線路をふさいで蒸気機関車を止めたという逸話。そのまま走ればヤスデがつぶれて滑って車輪が空転してしまうので砂をかけながら走るしかないと。
この区間はかなりの坂なので雪の時とかも汽車がいったん止まってしまうと敦賀まで引き返して再発進しなければいけないとか...この話は過去載ってたHPもありましたが今は消えたようです。
これは雑談になってしまうので百科事典としては不向きかもしれません。
それとあやふやな記憶はソースとしてどうかという考え方もありますし、では、誰かがあやふやな記憶に基づいて書いた物がソースとして流布してる場合はどうなるのか?という疑問もあります。この辺りは協議の必要があるかもしれませんね。Miami 2006年3月11日 (土) 02:47 (UTC) 北陸トンネル、頸城トンネルに加筆しました。私は沿線出身なので懐かしくて書いてるだけで他の路線はよく知らないのです。何かあれば書かせていただきます。Miami 2006年3月11日 (土) 02:47 (UTC)

大変よく分かりました。北陸トンネルが6月9日に(暫定)供用開始されていたのは恥ずかしながら初めて知りました。お勧めの『福井県史』のページは目を通したことがあります。
それから、署名ですが~~~~(チルダを4つ)入力すると日付入り署名に置き換わりますのでそれを末尾に書いてください。継続して執筆に参加されるのでしたらログインしてユーザ名を取得されることをお勧めします。210. 2006年2月26日 (日) 21:18 (UTC)[返信]

ありがとうございます。チルダの使い方、やっと覚えました(笑)。Miami 2006年3月11日 (土) 02:47 (UTC)

遅くなりましたが、宮脇俊三氏の「廃線跡懐想」より記述を転載します。 158P. 1969.9.29.浦本〜有間川間新線(電化・複線)へ移行し旧線22.9kmと木浦・百川・西名立信号場を廃止。能生、筒石、名立駅を移転。2日後の10.1から谷浜〜直江津間が新線に以降。これを機に米原〜直江津間の電化・複線化完成。 とあります。 これを元に年表を訂正してよろしいでしょうか?Miami 2006年3月25日 (土) 15:37 (UTC)

上記で示したJR西日本公式サイトの「データで見るJR西日本2004」はご覧になりましたか? :ちなみにHTML版(2003年版)です。→[1]
多くの資料で電化完成を1969年9月29日としているのが気にかかるのですが。210. 2006年3月25日 (土) 21:43 (UTC) 訂正210. 2006年3月25日 (土) 21:45 (UTC)[返信]

そのデータは以前に読ませていただきました。「廃線跡懐想」とJRの記録とでは信憑性が違いますので、当面、訂正は見合わせたいと思います。もう少し、当時の資料蒐集してみます。Miami 2006年3月25日 (土) 23:14 (UTC)

昭和38年頃の米原〜田村間[編集]

210.さんへ http://www.asahi.co.jp/video/video.html の記録映像によると昭和38年頃の米原〜田村間が電化されてたようです。 年代か何かの間違いかもしれないけど、映像では確かに電化されてます。 田村よりに切り替えジャンクションがあって、確かにD50型が牽引してるのだけど、複線架線がしっかり映ってます。 よかったら見てみてください。Miami 2006年6月19日 (月) 12:14 (UTC)

昭和38年なら、米原~田村間はすでに昭和37年に直流電化されていますから、何も不思議はないですね。この項目の年表にしっかり書いてあります。あと、ノートで発言する場合は、署名をお忘れなく。半角チルダ「~」4つで自動的にできます。--Kone 2006年6月19日 (月) 10:37 (UTC)[返信]

署名、忘れてました。まぁ、履歴でわかりますよね。重ね重ね、大ボケでした。Miami 2006年6月19日 (月) 12:14 (UTC)

もしかして、昭和37年=1957年、昭和38年=1958年と思われていましたか?つまり1958年には電化されていたと。
昭和37年=1962年、昭和38年=1963年ですね。210. 2006年6月19日 (月) 19:17 (UTC)[返信]

いやいや、そこまで大ボケじゃないです(笑)。ただ、時間軸が頭の中で絵に描けなかったので「教えて君」でした。これからもよろしく。Miami 2006年6月20日 (火) 10:24 (UTC)

ふと素朴な疑問が涌いてきました。D50型が米原〜田村間に投入された時って、どうやって運んだんでしょうね?その頃には福井以南は既に電化されてたんですが、D50型が自分で煙吐いて来たのか、それとも電気機関車に牽引されてきたのか...それを考えると春日三球・輝代のような気分になります。--Miami 2006年9月17日 (日) 19:47 (UTC)[返信]

路線改良による影響[編集]

124.24.202.162 (ノート) さま >(→概略 -路線改良(複線化・高速化)に伴って普通列車が減少したという事実はありません)
とのことですが、論点が違います。路線改良によるダイヤ変更に際して普通列車が減少したということは確かにありませんがそういうことを述べたつもりはありません。何十年かのスパンの経緯による影響、結果として過疎化が進行したということを述べたまでですので。まぁ特に記述するまででもありませんので削除されるならそれでも構いません。--Miami 2007年2月2日 (金) 22:06 (UTC)[返信]

外部リンク修正[編集]

編集者の皆さんこんにちは、

北陸本線」上の5個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年9月27日 (水) 15:19 (UTC)[返信]

正式な起点・終点について[編集]

--多趣味戦隊ブランケット会話2021年7月29日 (木) 01:00 (UTC)[返信]

今まで、そして現時点でも北陸本線の起点・終点は、〝起点:米原駅、終点:金沢駅〟であると思っていました。ところが、京浜東北線横須賀・総武快速線などで、上下の方向および区間表記に関する編集を行っている最中、『令和2年度 鉄道要覧』で例外的な路線はないか確認したところ、下記のように記載していました。

  • 線名:北陸線 区間:金沢,米原 キロ程:177.6

また、北陸本線に繋がる湖西線も、鉄道要覧では下記のような記載でした。

  • 線名:湖西線 区間:近江塩津,山科 キロ程:74.1

上記は何を意味するかというと、北陸本線の起点は金沢駅、終点が米原駅、湖西線の起点は近江塩津駅、終点が山科駅だということなのです。これは、本当に驚きました。国鉄時代から北陸本線は米原駅→直江津駅、湖西線は山科駅→近江塩津駅とずっと信じてきたわけですから、上記を見た瞬間は信じられない思いでした。でも、何故起点と終点が変更になったかについて考えると、恐らく、2015年(平成27年)3月14日の北陸新幹線長野駅 - 金沢駅間延伸開業に伴う変更であると思います。ただ、現時点で2014年度および2015年度の鉄道要覧を手元に入手していないので、私め自身確認が取れません。また、上下方向に関しては、武豊線と同様に、起点の大府駅方面が下りで、終点の武豊駅方面が上りという例外的路線(ダイヤグラム#上りと下りも参照)となっている可能性もあります。よって、皆様のご協力の下、湖西線も含め、この場でこれらについて確認を取りたいと考えました。

これらの確認が取れ次第、本文の冒頭にそれを反映したいと思いますが、本文の各節の上下方向や区間表記を正式上の表記に修正するのは、手間と時間が大いにかかるので、両記事の冒頭に「本稿では、上下の方向および区間表記は、時刻表などの表記に倣い、米原駅→金沢駅方向を下り、金沢駅→米原駅方向を上り、区間表記は米原駅→金沢駅の順に記述する。」(湖西線の場合は「山科駅→近江塩津駅方向を下り、近江塩津駅→山科駅方向を上り、区間表記は山科駅→近江塩津駅の順に記述する。」となります)という文章を入れて、正式な起点・終点との違いを説明したいと考えています。皆様のご協力がなければできないことなので、ご協力を是非ともお願いします。--多趣味戦隊ブランケット会話) 2021年4月17日 (土) 01:35 (UTC)(一部修正--多趣味戦隊ブランケット会話2021年4月18日 (日) 08:41 (UTC)[返信]

情報 手持ちの平成9年度版、平成18年度版、平成28年度版の『鉄道要覧』を確認してみました。北陸線は平成9年度版・平成18年度版が「直江津, 米原」、平成28年度版が「金沢, 米原」でいずれも米原駅が終点、湖西線は平成9年度版、平成18年度版、平成28年度版とも「近江塩津, 山科」で山科駅が終点でした。国有鉄道時代は北陸本線は米原駅が起点(鉄道院告示第54号「国有鉄道線路名称」『官報』1909年10月12日鉄道省『鉄道要覽』昭和12年度〈現在の『鉄道要覧』とは異なります〉)でした(湖西線は開業時の公的資料が見つけられず不明)。宮脇俊三編著『鉄道廃線跡を歩くIV』(1997年、JTB)p.198の「国鉄再建法の区間表示・営業キロの推移」には、北陸線と湖西線(他にもいくつかあります)の区間表記に「〈逆〉」印が付けられ、同書p.192で日本国有鉄道経営再建促進特別措置法の別表第一では「日本国有鉄道線路名称」とは起点と終点が逆になっている区間に〈逆〉を付記した旨が書かれています。つまり、1987年の国鉄分割民営化時に起点と終点が逆になったようです。
一方、JR西日本が発行している『データで見るJR西日本』では、北陸線は「米原~金沢」、湖西線は「山科~近江塩津」と書かれています。
本記事および湖西線の記事において起点と終点が『鉄道要覧』と逆になっている経緯はわかりません。下り方向につられたからでしょうか。--210a会話) 2021年4月17日 (土) 19:15 (UTC) 一部修正--210a会話2021年4月17日 (土) 19:22 (UTC)[返信]
返信 (210aさん宛) 貴重な情報誠にありがとうございます。上記の情報を拝見した後、私めの手元にある国鉄時代の日本交通公社(現・JTB)および国鉄が謹呈した時刻表の線名索引(「日本国有鉄道線路名称」に基づいて表示したもの、<>内の左が起点、右が終点)には、北陸本線<米原 - 直江津>、湖西線<山科 - 近江塩津>と記載されていました。210aさん所有の宮脇俊三編著『鉄道廃線跡を歩くIV』の情報から、どうやら1987年の国鉄分割民営化時に起点と終点が逆になったことは、ほぼほぼ確定の模様ですね。ただ、手持ちの(監修)今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 全線・全駅・全廃線』(2008年、新潮「旅」ムック、新潮社)9号関西2 pp.30 - 31、6号北信越 pp.24 - 25、pp.32 - 33の「JR北陸本線」の駅名一覧には、米原~敦賀(9号関西2 pp.30 - 31)、敦賀~津幡(6号北信越 pp.24 - 25)、津幡~直江津(6号北信越 pp.32 - 33)と、同書9号関西2 p.31の「JR湖西線」の駅名一覧には、山科~近江塩津と記載されており、北陸本線は起点米原駅、終点直江津駅、湖西線は起点山科駅、終点近江塩津駅という記載でした。また、国鉄時代およびJR化後の時刻表においても、北陸新幹線開業前までの湖西線と北陸本線の記載ページの表記は「湖西線・北陸本線 下り(大阪・米原 - 富山)」、「北陸本線・信越本線 下り(富山 - 直江津 - 長岡)」、「北陸本線・湖西線 上り(富山 - 米原・大阪)」、「信越本線・北陸本線 上り(長岡 - 直江津 - 富山)」、北陸新幹線開業後は「湖西線・北陸本線 下り(大阪・米原 - 金沢)」、「北陸本線・湖西線 上り(金沢 - 米原・大阪)」でした。そして、JR西日本HPの『データで見るJR西日本』も上記のようになっています。
鉄道要覧と、時刻表などやJR西日本HPでは両線の起点・終点が逆に表記された、理由については、210aさんの提供情報で、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法により、北陸本線と湖西線の区間表記に「〈逆〉」印が付けられたこと、JR各社で個別に起点・終点の変更ができるようになったことなどが推測され、では、何故それを時刻表やHPで修正しなかったのかを推測すると、簡単に言えば、JR西日本発足時にそれを変更することにより、現場や利用客の混乱を一番恐れた結果だと考えます。これは、私めの独断による推量の域から出ないので、これを両記事の本文に記述することはありませんが、ある程度それが明確に判明しても、いわゆるトリビア的な内容となりそうなので、その理由を記述しなくても、現時点で確実に検証できることを記述すれば良いので、今後は、手元にある鉄道ファンや鉄道ジャーナル、鉄道ピクトリアルに執筆するライター諸氏が、JR発足後に北陸本線や湖西線の起点・終点に対してどのように記載しているか確認してから、両記事の本文に記述したいと思います。なお、現状で確認できたのが、鉄道ジャーナル1987年11月号 p.43のレールウェイ・ライター種村直樹著「北陸本線から見たJR金沢支社」の冒頭文に「>北陸本線-米原を起点とし直江津にいたる(以下略)」との記載だけですが、種村直樹氏でさえ、JR発足時点での起点・終点の変更は知らなかった可能性があります。いずれにせよ、このまましばらくこの確認告知を続けていく所存です。--多趣味戦隊ブランケット会話2021年4月18日 (日) 08:41 (UTC)[返信]
コメント 念のため書いておきますが、〈逆〉印を付けたのは『鉄道廃線跡を歩くIV』の「国鉄再建法の区間表示・営業キロの推移」の作成者(の判断)によるものです。日本国有鉄道経営再建促進特別措置法やその別表には〈逆〉とは書かれていません。--210a会話2021年4月28日 (水) 20:47 (UTC)[返信]
返信 (210aさん宛) ありがとうございます。本文を編集する際、北陸本線、湖西線両記事に、210aさんがご提示してくれました書籍などを出典の素材として使用しました。
報告 手元にある各鉄道趣味誌の確認に手間取ったり、私め自身の諸般の事情により、確認作業が大幅に遅れてしまいました。とりあえず本文の方には、冒頭文に本文の区間表記などの説明と、概要の節の小見出しに「正式な起点駅・終点駅」を挿入して、正式上と一般向けの書籍などでは表記が逆な旨の説明を簡潔に記述しました。また、冒頭の確認タグはしばらくの間貼り続けます(概ね3ヶ月以内には剥がす予定です)。よろしくお願いします。--多趣味戦隊ブランケット会話2021年6月19日 (土) 05:41 (UTC)[返信]