ノート:ノンクリスチャン

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中立的観点・告知テンプレ、その具体的疑問[編集]

中立的観点のタグと、告知テンプレを貼付させて頂きました。理由は以下の通りです。

  • まず、表現が過激に過ぎます。WP:APTにも関連するかと思いますが、ノン・クリスチャンについて最初3行目に列挙されているような表現を冒頭に持ってくるようなやり方を行う教派ばかりではありませんし、所謂リベラルと呼ばれる立場の人々はこのような見解をとりません。
  • 私は日常会話を行うレベルで接した事のあるクリスチャンの教派はプロテスタント聖公会正教会のほんの一部に限られていますが、「ノンクリスチャン」という語彙を知ったのはネットが普及し私自身がネットに触れるようになりましたごく最近のことであり、「非キリスト教徒」よりもよく知られた語彙とは思えません。「ノンクリの語はキリスト教の現場で頻繁に使われることばである。」とは言えないと私は思います。少なくとも私の知る限り、日本正教会の文献での登場例は記憶にありません(英語ではどうか存じませんが)。
  • 出典が殆ど所謂福音派の人々に偏っており、この記事がかなり「福音派」の視点に拠っている事の性格をはっきりさせてしまっています。
  • 別の例で言えば、「ネット右翼」について、所謂左翼陣営に属する人々からの視点に沿ってのみ記述するようなものです(正直言って記事「ネット右翼」についても首を傾げる内容なのですが、私はこの種の記事には一切関わらないようにしています)。

実はそもそも、「非○○」といった記事の必要性すら疑問を持っています。たとえば「非正教徒」といった記事は必要でしょうか。「非カトリック」とか「非正統派」といった記事は必要でしょうか。いや、必要性だけでなく、中立的記事を作成出来る可能性がそもそもあるのでしょうか?ウィクショナリーであれば説明可能な字引的な記事は作れるでしょうけれど、それ以上のものは何らかの偏りを生むだけで、実りは少ないと思います(これは、記事「ネット右翼」にも同じ事が言えるのですが、再三申しますが私はこの種の記事には関わりません)。編集での対応ではなく、テンプレを貼付させて頂きましたのは、そもそもこの記事の必要性と、百科事典的な記事を生み出す事の可能性、および費用対効果に疑問があるからです。--Kinno Angel 2010年4月3日 (土) 07:59 (UTC)[返信]

一部修正加筆しました--Kinno Angel 2010年4月3日 (土) 08:11 (UTC)[返信]
  • リベラルな人の見解は日本基督教団という日本で最大の合同教会が出版しているジョン・ヒックの学問的な文献を出典にあげ、両論併記を心がけました。
  • この語は、キリスト教文書、教会の会話でよく登場し、伝道志向を持つ超教派の団体、一例をあげればキリスト者学生会(KGK)でもよく使われます。ネットでもノンクリ、ノンクリスチャンで検索すれば、多数ヒットするはずです。
  • キリスト教は初代教会から異教・異端との対決・識別の姿勢を鮮明にしてきた宗教です。諸宗教の境があいまいな日本的な宗教概念とは異なる宗教であるといえます。キリスト教側から他の宗教の人を指す語に、異教徒という語もありますが、日本語wikiの異教主義の項目は逆にキリスト教でない日本人の視点から書かれたものとなってしまっています。異教主義の項目を改善しようかとも考えたのですが、異教徒の語は冒頭にアラビア語が載っているなど、イスラム的ですし、イスラムでも異教徒の語は使います。そこで、キリスト教の項目として、英語圏や日本の少なくとも伝道意欲の高いプロテスタントで、頻繁に使うノンクリスチャン、ノンクリの語で新規項目を作成しました。--Evangelical 2010年4月3日 (土) 09:11 (UTC)[返信]

「たとえば「非正教徒」といった記事は必要でしょうか。「非カトリック」とか「非正統派」といった記事は必要でしょうか。いや、必要性だけでなく、中立的記事を作成出来る可能性がそもそもあるのでしょうか?」

その場合、非正統派ではなく、異端と呼ぶはずです。正教には「異端者帰正式」があると聞いています。正教とプロテスタントは異端の語の使用方法が若干異なりますが、キリスト教はクリスチャンとノンクリスチャンだけでなく、正統と異端を区別する宗教なので、異端の項目は必要でしょう。たとえばキリスト教系の宗教でも、正統の立場からはモルモン教、エホバの証人、統一協会をクリスチャンとは呼ばず、異端もしくは異教と呼んで区別します。しかし、モルモン教やエホバの証人や統一協会の方々は、自分たちは原始キリスト教からの連続性をもったキリスト教徒だというはずです。これについては英語版にen:Christian heresyen:List_of_Christian_heresiesがあります。確かにキリスト教の異端の記事も難しく、必要であると考えながらもまだ作成していません。--Evangelical 2010年4月3日 (土) 09:55 (UTC)[返信]
WP:APTに「大言壮語とは、事実としての情報なしに、記事を単に引き立たせるための表現のことです。」とあります。ロイドジョンズら指導者が、Kinno Angel氏の言われる「最初3行目に列挙されているような表現」をノンクリスチャンの定義としているのは、単なる事実であり、事実の記述です。--Evangelical 2010年4月3日 (土) 20:39 (UTC)[返信]

Kinno Angelさんの見解をほぼ支持します。私もインターネット上でしか記憶に無い言葉です。先ほど、カトリックの文献を見ていたんですが、「非キリスト(教)者」という言葉の例はありますが、字義通りの「キリスト教信者では無い人」以上の概念が展開できるほどの言葉とも思われませんでした。他の宗派は知りませんが、カトリックではそう言ってよろしいかと思います。それから、

  • カトリック教会の公教要理(1936年)でも「異教人」との結婚を原則的に禁止し、重大な理由がある場合、特別に許可を得ることができるとされている。

という記述ですが、1936年の公共要理というのは古過ぎやしませんか。カトリックの教義は第2ヴァチカン公会議で大きく見直されており、現在のカテキズム(1992年)で確認しましたが「原則禁止」なんて書いてありません(カテキズム1635)。教会権威者の「明示的免除」が必要だというだけです。個人的な話をすると私の結婚もこれに該当していますが、神父さんがその場で即座にOKを出しました。そしてこの箇所は「異教人」ではなくて「非キリスト者」という表現になっていました。かつて歴史的にはこのように定められ、このような表現が用いられていたみたいな記述ならそれで構わないと思いますが、記事の趣旨に合うように過去の文献を使用しているような印象を持ちました。以上、議論の参考になればと思い、記しておきます。--おーた 2010年4月3日 (土) 09:17 (UTC)[返信]

カトリック教会において現在では、禁止はしないかも知れませんが、許可がいるわけですし、カトリック信徒が他の宗教や教派の人と結婚した場合、結婚が秘蹟サクラメント)にならないという、重大な相違がでてきます。プロテスタントにおいてもウェストミンスターの規定を必ずしも遵守しているわけではありませんが、ノンクリとの交際、結婚は重大な問題と認識されています。出典にリンクを付けました。--Evangelical 2010年4月3日 (土) 09:27 (UTC)[返信]
公教要理の語を間違えていたので訂正しました。いま手元にある『カトリック小事典』(エンデルレ書店、1986年)では、「不信仰者(infidel)信じない者。かつては非キリスト者すべてをさす語として使われたが、今では信仰を持たない者、すなわち、無神論者と不可知論者だけをさす。」と書いてあります。つまり、不信仰者の語は「かつては非キリスト者すべてをさす語」として使われていました。これが、教会の古くからの正統の立場であったことが確認できます。ここから変化したのはローマ・カトリックやリベラルの教会の方々ですが、すべての教派が新しい考えを採用するに至ったわけではありません。--Evangelical 2010年4月3日 (土) 13:44 (UTC)[返信]
念のため書いておきますが、記事中にある宗教的包括主義の主張者カール・ラーナーは、第二バチカン公会議に大きな影響を及ぼしたカトリック神学者です。この通り、ノンクリスチャンに関する救済観の代表的な三つの立場、排他主義、包括主義、多元主義の各見解は文中に併記してあります。--Evangelical 2010年4月3日 (土) 14:25 (UTC)[返信]
ええと。許可が要るのはプロテスタント(あるいは正教会)とカトリックの結婚でも同様ですよ。「不信仰者」の話にしても、話がずれているような気がします。私が言いたいのは、歴史的な話と現在の話を混在させて書かないほうが良いということです。それに関連する話ですが、本文で公教要理の出典も付け加えられた件は、第2ヴァチカン公会議以降のものでないと現在の話としては意味はないです。--おーた 2010年4月3日 (土) 15:06 (UTC)[返信]
それが書いてあります。おーたさんも教会の許可がいると理解しているではありませんか。現代の教会が柔軟に運用しているのだとしても、原則がないということにはなりません。また、「カトリック小事典」にある昔の定義であれば、不信仰者=ノンクリスチャンなのですから、話しは全然ずれていません。私は「伝統的にはノン・クリスチャンとの結婚だけでなく、他教派との結婚も禁じられていた。」と記述し、きちんと分割して書いています。この記述はクリスチャンとノンクリスチャンとの結婚が今でも問題となるルーツの一つに触れた補足文に過ぎません。そこをメインのように取り上げるのは誤読です。クリスチャンとノンクリの結婚が問題にならない教派があるなら、キリスト教の伝統からはずれています。キリスト教と異教を区別しないところまでいくと、果たしてキリスト教なのかから議論されなければなりません。公教要理の引用は、異教徒=ノンクリスチャンの一例にすぎません。この記事が第二バチカンを踏まえていないようにいっておられますが、初版からカール・ラーナーを入れているのですから、誤読です。--Evangelical 2010年4月3日 (土) 20:20 (UTC)[返信]
この語を「インターネット上でしか記憶に無い言葉です」といわれる方は、福音派や聖霊派と呼ばれるプロテスタントとはまったく異なった立場であることを示しています。福音派、聖霊派のクリスチャンでノンクリ、ノンクリスチャンの語を聞いたことのない者はおりません。とはいえ、ノンクリスチャンとクリスチャンの相違を認めないお立場があることは存じておりますし、ジョン・ヒックを出典としてあげています。--Evangelical 2010年4月3日 (土) 20:45 (UTC)[返信]
コメント(インデント戻し)
ええと。話とインデントを元に戻させて頂きます。
少なくとも私の主張について私の悪文の所為もあり誤解を生じているようなので、観点/必要性/可能性の大きく三つに(小項目では六に)まとめ、箇条書きします。
  • 観点
  • 語彙 - ノンクリスチャンという語彙は確かにプロテスタントの少なくない教会では使われるのでしょうけれど、あまり一般的ではない教派もあるということです。私が知る人々は田舎の年配者が多く、なおさらそういった世代には一般的ではない語彙です。
  • 説明内容(1) - 「ノンクリスチャンはクリスチャンと違って滅びの子であり云々」といった言い方を前面に押し出す内容は、説明の仕方がかなり偏っていると言えます。「聖書にこう書いてある」「○○はこう言っている」というように断言的に書く事自体が、既に観点の偏りを生みます。こういった事情は、西方教会に暗い私ごとき以上に、Evangelicalさんの方が圧倒的にお詳しい筈であり説明は不要でしょう。ましてリベラルVS福音派といった対立軸すら欠片も持たない正教会においては、論点の枠組み自体が異なっています。
  • 説明内容(2) - 例えば「非正教徒」といったページを私が作り、「正教の観点からみた非正教徒」といった内容で記述し、そこにおいて「正教以外はカトリックであろうとプロテスタントであろうと異端である」という一方の極としての見解を持つ正教徒の著作を出典として記述するとします。これは果たして中立的と言えるでしょうか?キリスト教全体で中立的と言えないばかりか、正教内ですら中立的とは言えないでしょう。
  • 説明内容(3) - 今はキリスト教内だけの観点の問題に議論が限定されていますが、他宗教プロジェクトにも私は参加を呼びかけようと考えております。例えば「非仏教徒」という記事があって、「仏教徒でない者は地獄界行き」とか「悟れない」云々といった記事が出典付きで作成されたとします。これは中立的と言えるでしょうか?他宗教の人が「ノンクリスチャンこそ素晴らしい」といった内容の記事を出典つきで加筆する事も、原則的には可能である以上、不毛な記事になると思います。
  • 必要性
  • そもそも「非キリスト教徒」といった記事が必要なのでしょうか。私が辞書を引いて何とか分りますのはロシア語・ドイツ語程度ですので(ギリシャ語版・ラテン語版はそもそも収録語彙数が少ないために参考にならないと判断しました)、両言語版を調べましたが、英語版も含めて、どうやらそのようなページは見当たりません。
  • 可能性
  • そもそもこのようなページを作成する事は可能なのでしょうか?キリスト教内ですら見解が分かれ、他宗教・無神論者・宗教学者の見解を考えれば、この語彙について書かれる事は膨大な分量にしなければならず、中立性を確保するために費やすべきリソースは膨大な割に、得られるものはおそろしく少ないと思わざるを得ません。しかも記事の大部分の趣旨が「万人救済主義」とも重なるようにも思います。ウィキペディア執筆陣が総力を挙げて叡智を結集して中立的な内容を書かなければならないほどの必要な記事とは全く思えません。字引的な記事ならば可能であり(ノンクリスチャンとは非キリスト教徒のこと)、ウィクショナリーにそのような項目はあっても良いかもしれませんが、百科事典の記述には向きません。--Kinno Angel 2010年4月4日 (日) 08:37 (UTC)[返信]

この語彙が一般的でない教派があるのは認めます。また、ノンクリスチャンについてのこの説明が正しいとは断定していませんし、この語を使わない教派や他宗教の信者さんや無宗教の方々が、これを受け入れるとはとうてい考えられません。しかし、使う教派についていえば、その指導者がこう定義しているという事実は断定できます。「非正教徒」の語が使われているのかはわからないので判断できませんが、プロテスタントやカトリック信徒が正教徒になるとき「異端者帰正式」が行われ、正教の公式見解としてプロテスタントやカトリックは「異端」なわけですから、この用語についてどこかに説明があってもいいと思います。

英語版には異教主義の項目がありますが、日本語版は英語版とは異なり、ペイガニズムの項目は明らかに日本の異教徒の視点から書かれたものとなっています。この項目を改良しようかとも思ったのですが、日本では異教徒の語よりノンクリスチャンというさらによく使われる語があります。中立性を考えノンクリスチャンの語を使わない教派の記述もいれて作成しましたが、「他宗教・無神論者・宗教学者」がノンクリスチャンの語を使うのでしょうか。たとえば聖母マリアプロテスタントでは使わない用語なので、英語版を参考にプロテスタントの項目を別に立てました。聖母マリアの項目の冒頭から、この語を使う教派の理解が中心的に書かれているのは、別段、中立性に反するものではありません。WP:NPOV「争いのある主題についての長い記事」Q.「例えば進化論について書く時には、進化説と創造説(人間も他の動物も神が創造したとする説)の論争を全てのページで展開しなければならないわけではないですよね?」A.「もちろんそんな必要はありません。どんな主題について書くのであれ、誰かが反論の余地があると考えるような前提が必ず入ってしまうものです。これは進化生物学に限らず、哲学、歴史、物理学などについてもあてはまることです。」--Evangelical 2010年4月4日 (日) 09:40 (UTC)[返信]

コメント 福音派におけるターム説明記事とするのであれば、それはそれでスッキリします。もしそのような記事を志向されるのであれば、冒頭文の「キリスト教の立場から、クリスチャンでない人の身分を指して使われる語である。」は「福音派もしくはそれに類する教派において、クリスチャンでない人の身分を指して使われる語である。」と書き換えられるべきでしょうし、「キリスト教の現場で頻繁に使われることばである。」は削除されるべきでしょう(正教もローマカトリックも聖公会も福音伝道を行っていないとは言えないでしょう)。また、冒頭に「本項では福音派による非キリスト教徒への視点について述べる」といった断り書きが必要になるでしょう。いかがでしょうか。おーたさんがどのようにお考えかは分りませんが、「福音派の視点による福音派のタームの解説」といった記事体裁にするのであれば、私の問題提起の大半は解決し、収束も近くなります。--Kinno Angel 2010年4月4日 (日) 09:59 (UTC) 微修正--Kinno Angel 2010年4月4日 (日) 10:48 (UTC)[返信]
(補足)上記コメントは、Evangelicalさんに向けたものです。--Kinno Angel 2010年4月5日 (月) 06:24 (UTC)[返信]
ついでなので、私の見解も書いておきます。
欧米社会をキリスト教が覆っていた時代に「クリスチャン/キリスト教徒」という言葉に「文明人」や「まともな人間」という意味が重なり、キリスト教の信仰を持たない人々を野蛮なものとみなして布教の対象とするという時代が長かったことは私も知っておりますし、現在の一部のキリスト教宣教師たちにもそういう言葉のニュアンスに鈍感なまま布教先で「ノンクリスチャン」という言葉を使う人たちが居て、そのニュアンスに思い至らぬまま無邪気にそのまま反復する非キリスト教文化圏の信者さんたちも居るのだろうということは、私にも容易に想像はつきます。また、キリスト教内での正統意識が強ければ強いほど、自身が理解している概念はキリスト教一般に通じるものであると考えやすくなるということも理解は出来ます。
しかし、そういう問題を孕んだ言葉ですから、やはり項目として立てるかどうかも含めて、記述は注意深くあるべきでしょうと、私は思います。とくに最初3行目の文章は、問題は多いです。私の理解では、現在、他宗教との対話を掲げている宗派(カトリックを含む)は、異教徒だとか不信仰者だとかの言葉についてはたいへんな神経を使っています。言われた方は不愉快極まりないですからね。そこは、是非考えていただきたいのです。問題点の整理はKinno Angelさんにやっていただきましたし、その論旨を私は支持します。そこに加えることはほとんどありませんが、やはりEvangelicalさんのカトリック文献の使い方は我田引水っぽいかなと、思います。たとえば第2ヴァチカン公会議以前の公教要理を使うのは、(歴史的な話をするならともかく)フェアじゃありません。是非ご確認いただきたいのですが、日本のカトリック中央協議会では現在『公教要理』は販売も配布もしていません。現在の正式な教理を参照するならカテキズム(あるいは、その要約であるコンペンディウム)から引用するのが本当なんじゃないかと思います。で、カテキズムでの婚姻の項を私自身で確認した結果、「「異教人」との結婚を原則的に禁止し、重大な理由がある場合、特別に許可を得ることができるとされている」なんて表現は綺麗に消えていました。もちろん信仰を異にする二人の結婚について、「免除」という言葉が見られるなど、それが「禁止」されていた時代の痕跡は残っています。(いかにもカトリックっぽい玉虫色の「伝統継承」ですね。)しかし、それが現在のカトリックの公式見解である以上、わざわざ古い公教要理から引用して「禁止」のニュアンスを強調するのは、Wikipediaで言う所の「情報の合成」に相当するのではないでしょうか。
もちろん、以上は現在のカトリックの公式見解についてのもので、歴史的な話をされる場合や、公式見解を離れた実態についてのものではありません。それでも、繰り返しますが読む人によっては、たいへんに不愉快な話題でもありますから、書くからには正確に書いていただきたいですし、今の状態は書かないほうが良いと思います。ただ、福音派内での用法についてはEvangelicalさんも自信をお持ちのようだし、私としても反対するだけの知見を有していませんので、そこに限定して書かれることについては私も反対はいたしません。--おーた 2010年4月5日 (月) 13:20 (UTC)[返信]
それが禁止でなければ、免除はされないでしょう。いずれにしても秘蹟とはならないのです。--Evangelical 2010年4月18日 (日) 14:22 (UTC)[返信]
コメント
議論が停止してしまっていますが、Evangelicalさんが宜しければ、以前提案申し上げましたように記事を書き換え、「福音派における概念説明」としての記事に作り変えさせて頂きますが宜しいでしょうか。具体的な主要改変部分は以下のようになりますが、場合によっては他にも何箇所か変えさせて頂くかもしれません。
  • 冒頭文「キリスト教の立場から、クリスチャンでない人の身分を指して使われる語である。」
→「福音派もしくはそれに類する教派において、クリスチャンでない人の身分を指して使われる語である。」
  • 「キリスト教の現場で頻繁に使われることばである。」
→削除
  • 冒頭に「本項では福音派による非キリスト教徒への視点について述べる」といった断り書きを書き加える
--Kinno Angel 2010年4月18日 (日) 12:39 (UTC)[返信]
non-Christianの語は福音派以外では使わない語というわけでは、なさそうですが。--Evangelical 2010年4月18日 (日) 14:22 (UTC)[返信]
語彙単体の教派別の用例ではなく、記事の性格を問題にしております。福音派における説明という色彩が濃厚ですので。--Kinno Angel 2010年4月19日 (月) 02:43 (UTC)[返信]
冒頭文を書き換えました。また、福音派の概念を説明するにしても、福音派VSリベラル、福音派VS万人救済説といった単純な二元論については、他の多様な見解への理解を妨げかねないため、順次修正させて頂きます。--Kinno Angel 2010年4月22日 (木) 16:23 (UTC)[返信]

報告[編集]

冒頭文を書き換えさせて頂きました。この語彙について、超教派の記事に発展させていく事は大変な労力を必要とするものであり、その割には全ての教派に於て使用頻度が多い語彙ではなく、費用対効果が薄いと判断せざるを得なかった為です。近くない将来、執筆者が多数現れて超教派の記事に発展させるリソースが担保されれば、超教派の記事に戻す事にも反対しませんが、現時点では私に実行出来ます中立的観点の維持は、これが限界です。
福音派でのターム・概念説明の記事とした事を以て、当方からの中立的観点の指摘のタグ・議論告知タグは一旦剥がしました。--Kinno Angel 2010年4月22日 (木) 23:53 (UTC)[返信]
節補完--Kinno Angel 2010年4月22日 (木) 23:56 (UTC)[返信]

異宗婚とキリスト教にある現行の教会法のリンクをみればわかりますが、ローマ・カトリックの教会法上で異教者との結婚は今でも禁止事項です。司祭にそれを免除できるほどの大きな権能が与えられているということを意味します。また、ローマ・カトリック自身が「教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答」で第二バチカンで教会が変化していないと主張しています。

また、Kinno Angelさんが作成してくださった神の像と肖によって、あらためて西方と東方で原罪理解が異なると認識しました。ルターの奴隷意志論、改革派のウェストミンスター信仰基準プロテスタント正統主義の原罪理解が確認されており、ここから離れればプロテスタントとは異なる理解となります。聖公会、プロテスタントに多数存在するという表現は字句的に矛盾します。

異教徒の語は欧米人によっては、神学を離れて用いられています。たとえば、「ナイフやフォークの使い方を知らない異教徒」に「キリスト教文明」を与えるといった具合です。むしろ、その異教徒の語の用い方ではキリスト教信仰を持たず、神学的なノンクリスチャンであるはずの欧米人が、彼ら定義の「野蛮な異教徒」を見下すことさえありうるでしょう。異教徒の語は時には異なる文化の人の文化や人格までも否定するために用いられる語ですが、ノンクリスチャンの語は純粋に神学的な語です。異教についての聖書の教えはヘブライ語、ギリシャ語で書かれた聖書に根拠のある教理であるのに、現状の日本語版のペイガニズムの語は、ラテン語由来の田舎者、野蛮人といった意味を前面に押し出すものとなっているので、このペイガニズムの説明も偏っています。また、「捉え方」のレベルのものではなく、確定教理のレベルの神学的問題です。神学上ここに書かれてあるように定義されたとしても、ある欧米人の使う異教徒の語とは違います。神学上どうであったとしても信じない人にとっては意味がありません。ハロルド・ネットランドはキリスト教が真理であるということについて比較は不可能だが、2000年間存続した観察可能な現象としてのキリスト教は比較、対照することは可能だと言っています。--イザヤ 2011年1月17日 (月) 17:36 (UTC)[返信]

コメント イザヤさん
まず、「神学」の重視の度合いですらも、既に東西教会の間で差があるということを御承知おき下さい。(西方にも同様の所があるのかは存じませんが)正教会において「神学」というのはそれほど頻繁に使われる語彙ではないですし、それほど重視される花形でもありません。公式サイトで「神学」の語彙を検索してみても、検索結果の通り、どちらかと言えば西方教会の神学と比較するような場面での用例ばかり、ほかには「神学大学」といった用例が見られる程度です。
「神学上の理解として」「神学的に」といった文言は、やはりスコラ以降の伝統に(肯定するにしろ否定するにしろ)乗っている西方で好まれるものであって、東方ではそれほど好まれないということです。
ですから定義文に「神学上の理解」といった時点で、既に西方教会バイアスがかかる蓋然性が極めて高いということです。私が作成しました神の像と肖を語句検索して頂ければお分かり頂けるかと思いますが、「神学」の語彙は(出典情報・カテゴリ情報除き)ゼロです。これは偶然ではなく、正教会の伝統、および出典文献との整合性を追求すれば、必然的にこうなるということです。
思弁による神学ではなく、聖師父の伝統への回帰という流れは、ゲオルギイ・フロロフスキイ以降の正教会で支配的となっています。当時ニコライ・ベルジャーエフはフロロフスキイを批判しましたし、今でも「神学」を重視する学者は無いではないのですが、主流ではありません。
本項にしても、「ノンクリスチャンは救われるのか」「ノンクリスチャンの類型は如何なるものか」といった思索・議論よりも、「罪人たる自身の救いについて聖師父はどう教えているのか、どのようにしてそれを血肉と化すのか」の方に関心を向けるのが正教会であり、ここまで「ノンクリスチャン」につき思索を深める伝統そのものが正教会には存在しないのです。
パーヴェル・エフドキーモフにしてもウラジーミル・ロースキイにしても、西方から向けられる正教会への質問に現れる関心事と、正教会の主要な関心事との差異、すなわち問題意識の方向性のレベルで異なっている事に苦しんでいたのではないかと思います。
これほどに、東西教会は異なっています(エキュメニズムが進展しないのは、その違いについての認識が甘過ぎた、もしくは浅過ぎた事に最大の原因があると私は考えています)。
どうかその辺も御考慮下さい。--Kinno Angel 2011年1月18日 (火) 04:34 (UTC)[返信]
コメント 加えて補足させて頂きます。
法の規定と、実際に行われていることに温度差があることは、世俗の法を御覧頂ければ分かるかと思います。
赤信号を渡るのは道交法違反ですが、実際には多くの人が赤信号を渡っています。
刑法上の犯罪についても「構成要件」に該当するからといって即罰せられるというのではなく、「違法性」「責任」が次に問われます。ここで「可罰的違法性」といった概念も存在します。
現実に条文がどのように運用されているかを述べて初めて「法」の記事足り得ます。ですからあらゆる法学書が「判例」の解説に多くを割いているのです。教会法も世界的に相当古いとはいえ法体系である以上、同じ事が言えるのです。
従いまして「ローマンの教会法で××と定められている」ことのみを以て「ローマンの法体系を述べた」事にはなりません。
イザヤさん御指摘の「教会法規定」は、日本の世俗国内法で言えば「六法」に当たります。「六法」だけ書いても「法的側面」を書いた事にはなりません。どのように運用されているかについては、各種カテキスム解説本などを出典に加筆しなければなりません。そこまで含めてはじめて「教会法」への言及が可能となります。--Kinno Angel 2011年1月18日 (火) 04:57 (UTC)[返信]

2014年以降の議論[編集]

上記の議論から3年以上経過しているのですが、最近この記事に気付いて、編集を行いました[1]。冒頭文の一部を元の記述に戻したのと、節を調整しました。また、おーたさんが書いておられたとおり、カトリック教会についての記述で第2バチカン公会議以前の「公教要理」を引用するのは(カトリック信者として言わせてもらうと)出典として話にならないぐらい古すぎます。本文中の「カトリック教会でも・・・「異教者」との結婚を原則的に禁止し、重大な理由がある場合、特別に許可を得ることができるとされている。」の部分を過去形に修正しました。また、「他の教派、教会との関係」の節は、他の教派に対する陪餐資格云々など本記事(ノンクリスチャン)の語義とは関係ないと考えたので削除しました。 --Lorettibarrend会話2014年1月25日 (土) 15:04 (UTC)[返信]
Lorettibarrendさん、編集内容に異議ありません。
当時、取り敢えずあそこまでしか出来ませんでした力不足をおゆるしください。--Kinno Angel会話2014年1月25日 (土) 15:38 (UTC)[返信]