ノート:シカゴ学派 (経済学)

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まずは論点を整理しましょう[編集]

中立的な観点のテンプレートのリンク先が宇沢の記述は問題#2つの記述は除去に応じたようなので3つめの課題に真摯に取り組んでくださいになっていましたが、趣旨があまりにも不明瞭なのでこちらに移させて頂きます。まずは論点を整理しましょう。IP利用者氏は何かを問題提起されたいご様子ですが、「多量編集でのごまかしは駄目[1]」、「偽装ソースで悪質編集[2]」「独自研究を除去。貴重な学習機会を逸し、10分でリバートしてしまったあなたの今後は暗いものになるでしょうね[3]」等といった漠然とした言葉を「編集内容の要約」欄に書かれただけでは何をご指摘されたいのか理解できません。記事の記述に問題があると感じられて一括的に記述を除去なさる前にノートでその旨を明示し、議論に参加してはいただけないでしょうか。また、IP利用者氏(49.253.220.12449.253.221.11749.253.212.3149.253.221.12049.253.215.19349.253.209.20949.253.219.108)は編集内容から同一利用者のようですが、毎回IPが変わってしまうようなので、議論に参加する意思がおありなら、ログインして頂きたいです。--Kobayashi Tsutomu会話2015年12月4日 (金) 08:26 (UTC)[返信]

[4]カリアーが都市伝説とかあなたの見解はどうでもいいんです。真剣な研究者が誰かは集団編集人が決める話ではないのです。二次資料を提出してください。誤解を生む(おそらく誤解をしてもらうことを狙ってブログ的な文にしたわけでしょうが)ような記述を先にしていたのは集団編集人であるあなたたち[5]です。私が最初にページに来たときにはとても見れたものではないブログ状態[6]だったということをはっきり指摘しておきます(「よくある誤解」って何ですか(笑)。もう馬鹿かとアホかと)。当然、そのころ編集していたJohn Robertsonとかいう人間はいっさい信用するに足らないのは自明です--49.253.215.140 2015年12月4日 (金) 17:09 (UTC)[返信]

あなたの仰るRobertson氏の編集とはまさか2015年7月12日 (日)の編集のことですか?彼がこの編集を行った事実と、あなたの「John Robertsonとかいう人間はいっさい信用するに足らないのは自明です」という主張の論理関係がよくわかりません。そもそも、仮に信用できない人間の投稿であったとしても検証可能性さえ担保されていれば、記述は信用に値する、というのがWikipediaの方針ではないでしょうか。Wikipediaは「前科二犯 [7][8]」、「もう馬鹿かとアホかと [9]」等といった罵詈雑言や感想を表明する場ではありません。そういった活動をなさりたいならばブログでもなさって下さい。--Kobayashi Tsutomu会話2015年12月7日 (月) 04:06 (UTC)[返信]

IP利用者氏は「説明をお待ちしています」[10]、「ノートでしっかり説明してください。一つ一つ復活させていけば十分なのですから。まず、宇沢の記述の釈明をしてください。」[11]、「どこが独自研究にあたるのか自己反省をしてみてください。独自研究癖を払拭することこそが今後のあなたの編集者としての未来を決めるのですから、あなたのための修行です。」[12]等と要求されていますが、どの記述がどういった点でWikipedia:独自研究は載せないに抵触するのかを一度もしてきなさってくれないので、(しかも、ノートでの議論をせずに大量に記述を書き換えられてしまっては)こちらとしても対応しかねます。また、「過去にはフリードマンの独自研究まがいの記述も指摘した」[13]とありますが、私は超能力者ではないので、テンプレートを貼るだけでなく言葉で説明していただかなければ指摘の内容を理解することはできません。さらに先日、IP利用者氏は記事冒頭に中立的な観点のテンプレートをお貼りになりましたが[14]、これもまた(ノートにおいて)言葉で説明していただかなければ意図が分からないのです。ですからまずは、ノート:シカゴ学派 (経済学)#まずは論点を整理しましょうにおける記事のどの記述が、Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:独自研究は載せないに抵触するとお考えになっているのかご説明ください。--John Robertson, for japanese会話2015年12月10日 (木) 03:08 (UTC)[返信]

一か月以上経ってもご説明がないようでしたので、件のテンプレートは除去いたしました。今後、内容の自明でないテンプレートを貼る際にはノートで補足説明ないし問題提起を行うようにしましょう。--Kobayashi Tsutomu会話2016年1月5日 (火) 04:22 (UTC)[返信]

宇沢の記述は問題[編集]

説明をお待ちしております--49.253.220.124 2015年10月1日 (木) 09:49 (UTC)[返信]

ノートでしっかり説明してください。一つ一つ復活させていけば十分なのですから。まず、宇沢の記述の釈明をしてください。--49.253.221.117 2015年10月23日 (金) 08:00 (UTC)[返信]

[15]このような記述をなさる方がいました。しっかり釈明するべくノートにきてください。ノートにくる意志がないのなら、除去は当然です--49.253.212.31 2015年10月25日 (日) 21:48 (UTC)[返信]
過去にはフリードマンの独自研究まがいの記述も指摘[16]した上で、ノートでの議論を求めたがおこしいただけなかったことを申し添えておきます。--49.253.212.31 2015年10月25日 (日) 21:53 (UTC)[返信]
「宇沢の記述」に関しては、私も除去しても構わないと思いますよ。しかし、49.253.212.31氏が以前削除した大量な記述は、「宇沢の記述」や「フリードマンの独自研究まがいの記述」と関係があるようには思えません。まずは、49.253.212.31氏が10月23日の一連の編集で削除した節「歴史」の記述と、「宇沢の記述」や「フリードマンの独自研究まがいの記述」との関係について、説明してください。まさか、全く関係がないのに節「歴史」の記述を大量に削除するなどという荒らしまがいの編集をされるわけはありませんから、何かしら関係があると判断されたのでしょう?--John Robertson, for japanese会話2015年10月29日 (木) 04:36 (UTC)[返信]
異論がないようなので「宇沢の記述」は削除しました。--John Robertson, for japanese会話2015年11月5日 (木) 05:18 (UTC)[返信]

2つの記述は除去に応じたようなので3つめの課題に真摯に取り組んでください[編集]

3つめの課題を提示しておきました[17]から、どこが独自研究にあたるのか自己反省をしてみてください。独自研究癖を払拭することこそが今後のあなたの編集者としての未来を決めるのですから、あなたのための修行です。下に文案を提案してください。--49.253.221.120 2015年11月5日 (木) 09:14 (UTC)[返信]

Kobayashi 氏なる人物がこの記述が独自研究だと認めたようなので前向きな一歩と評価しましょう。本当に前向きなのかは知りませんが。私はwikiの形式的な話をしているのであって、誤解を解くという行為自体が宣伝なんでwikiの使い方を間違えないようにといってるだけなんですがね。冒頭部を中立的表記に直したのは他ならぬ私ですよ、あくまでも形式的な話です。主張の問題ではありません--49.253.209.209 2015年11月30日 (月) 12:24 (UTC)[返信]
「冒頭部を中立的表記に直した」とはどのことを仰っているのでしょうか?まさか49.253.220.124 (会話) による 2015年10月1日 (木) 17:37の編集のことですか?そもそもノートでの議論や出典が一切ないあなたの編集が中立であるとは思えません。あなたの中では中立的であるのかもしれませんが。Wikipediaにおける「中立的」の意味が理解できていないようなので、Wikipedia:中立的な観点#中立的な観点とはをお読みになることをお勧めします。--Kobayashi Tsutomu会話2015年12月1日 (火) 03:50 (UTC)[返信]
違いますよ。それは全体を差し戻したときにそこが残ったんでしょう。私が最初にページをみたときがその冒頭でしたね。私がやったのはコレ[18]多種多様な経済学者を輩出したという形式的な表現が私の編集。私が要求しているのは書式であって、誤解を解こうが解かまいがどうでもいいじゃないかと言ってるんですよ、宣伝活動の場じゃないんでやめてくださいね(笑)--49.253.222.32 2015年12月1日 (火) 06:11 (UTC)[返信]
「形式的」と仰るのであれば、どの記述がWikipediaのどの規則(方針やガイドラインのどの文言)と照らし合わせて問題があるのかを具体的に提示して下さることを願います。--John Robertson, for japanese会話2015年12月10日 (木) 03:21 (UTC)[返信]

これは違反でしょうね[編集]

[19]まあ、元々私のオリジナルじゃないんでどうでもいいですが、踏まえるんじゃなくて合意をめざしてください。ただし集団編集人のように独自研究癖の強い悪質なものは編集適正化のための除去はできるわけですが。--49.253.222.32 2015年12月1日 (火) 06:25 (UTC)[返信]

合意を目指したいのであれば、せめて、ノート:シカゴ学派 (経済学)#「主張した政策」についての議論に参加してはいかがですか?この問題がノートで提起されてからの一ヵ月以上もの間、あなたは何度も閲覧や編集をされているようですが、一度もこの議論には参加されていませんよね?それから、「これは違反でしょうね」とありますが、どこが違反なのか具体的にご説明ください。ただ漠然と「違反」、「偽装ソース」などという癖がおありのようですが、具体的な説明が一切ない以上、ただの誹謗中傷ですよ。--Kobayashi Tsutomu会話2015年12月2日 (水) 03:21 (UTC)[返信]
まずは、どの行為がWikipediaのどの規則(方針やガイドラインのどの文言)に違反しているのかを具体的に説明していただけませんか?Kobayashi氏のご指摘の通り、ノートで問題提起(しかもIP利用者氏の代わりにKobayashi氏がして下さいました)されてから一ヵ月以上経っても全く異論がなかったという事実(ノート:シカゴ学派 (経済学)#「主張した政策」についてを参照)に対して、合意が形成されていないというのは、一体どういう意味なのか、理解できるように。--John Robertson, for japanese会話2015年12月10日 (木) 03:21 (UTC)[返信]

「企業の費用曲線を制度化し」という記述について[編集]

節「歴史」の「企業の費用曲線を制度化し」という記述は頁「シカゴ学派 (経済学)」の最初期(2005年11月20日)の段階からあるようですが、「費用曲線を制度化する」とはどういった意味なのでしょうか。また、この部分だけ出典が明らかでありません。出典が分かる方がおられましたら、補足して下さい。--Kobayashi Tsutomu会話2015年10月25日 (日) 02:54 (UTC)[返信]

それは過去の方でしょう。最初に記述したのは私ではありませんので過去に『大きく』遡った上でご確認ください。百科事典的な記述なんだろうと随分前の方の意志をおもんばかっただけで(いい加減な出典でブログ的記述をした悪質な編集者とは違うのだろうと)、要出典などのしるしをつけるなり除去するなりすればいいだけです。ついでに、宇沢の記述をwikiとしてふさわしいと考えるかどうかについても上の欄でご返答ください--49.253.212.31 2015年10月25日 (日) 22:00 (UTC)[返信]
「最初に記述したのは私ではありません」と仰いますが、あなたの独断で記述を差し替えたのですから、記述に関する責任はあなたも負うべきでしょう。"John Robertson, for japanese"さんが訂正してくださった出典に関する記述を改悪する理由を一切せずに、また、「随分前の方」の記述の信頼性を確認することもせずに、Robertsonさんの記述を削除してしまうのはマナー違反にも程があると思います(ちなみに、出典の文献の120頁は「R.F.ハロッド――現実的課題への挑戦者」という章で、シカゴ学派とは全く関係のない内容です)。また、「宇沢の記述」の件と、「第一世代」の記述に関する出典の参考先が誤っていることとの間の関係性が理解できません。Robertsonさんの編集を削除したければ、記述の非信憑性や不適切性を個別の記述に対してするべきでしょう。「宇沢の記述」に関しては私は関与していないので知りませんし、私やRobertsonさんの編集部分とも一切関係がないと思います。--Kobayashi Tsutomu会話2015年10月26日 (月) 04:29 (UTC)[返信]
この記事が初めて作成された際の節「歴史」の記述と酷似している記述を『岩波現代経済学事典』に発見しました。そこには、「1920年代のなかば、シカゴ大学経済学部でナイトとヴァイナーが教授に就任し、イギリスの経済学、とくにマーシャル体系を受け継ぎ、その精密化を図るとともに、マーシャルの自由主義経済思想を受け継ぎ、(中略)とくにヴァイナーはマーシャルの企業の費用曲線を明確にし、今日新古典派のミクロ分析といわれる教科書の分析はヴァイナーに基づくものである。」とあり(p.332)、「制度化」はComplex01さんのタイプミスだと思われます(本当は「精密化」ないし「精度化」と書きたかったのでしょう)。そこで、例の事典を参考文献に加えて記述を整理いたしましたが、事典を参考文献とすることに問題があるならば、改めてご指摘ください。--John Robertson, for japanese会話2015年11月5日 (木) 05:18 (UTC)[返信]

外部リンク「シカゴ学派」の記述の信憑性について[編集]

シカゴ学派 (経済学)#外部リンクの「シカゴ学派」は、180.23.130.205さんの2011年11月9日 (水) 16:04の編集によってシカゴ学派 (経済学)に加筆されて以来、現在まで編集や削除されることなく残っています。数年間リンクが黙認されているため、出典としてのコンセンサスがあるのだと思い、私はこれを記述内の出典として明記したのですが、49.253.212.31さんが2015年10月23日 (金) 16:29‎の「編集内容の要約」において「ただしブログ部分は除去いたします」として追記部分を削除されてしまいました。他方、49.253.212.31さんはリンクそのものは削除していないため、今後、編集者の方々が混乱する恐れがあると思います。そこで、本節ではこのリンク先サイトの記述の信憑性についてのコンセンサスを形成したいと思います。--Kobayashi Tsutomu会話2015年10月26日 (月) 05:39 (UTC)[返信]

Wikipedia編集の基本的姿勢に関する再確認[編集]

出典の信憑性を議論する上で、Wikipedia編集の基本的な姿勢やルールを確認しておきましょう。49.253.212.31さんは2015年10月23日 (金) 15:43‎の「編集内容の要約」において「ソースが確認できたというのは嘘。ツィッター、ブログ等の偽装ソースで悪質編集が増加する前に戻す。wikiは2次資料という基本を知らなさすぎる」と仰っていますが、Wikipediaは三次資料というのが世界中のWikipedianの常識です。これについては「ウィキペディア日本語版のガイドライン」であるWikipedia:信頼できる情報源#情報源をご覧ください(また参考になるかどうか分かりませんが、こちらのニュース記事も追記しておきます)。
学者や評論家が実名で書き、誰でも閲覧することが可能なTwitterやBlogは内容によっては一次資料や二次資料になり得ると考えています。実際、マンキューベッカーの個人ブログは学術論文に引用されることも珍しくないと聞きます。--Kobayashi Tsutomu会話2015年10月26日 (月) 05:39 (UTC)[返信]

信憑性に関する個人的な見解[編集]

私個人としては、「シカゴ学派」は(少なくともシカゴ学派 (経済学)の編集においては)二次資料として十分な信憑性があると考えてよいと思います。その理由は

  • 執筆者が実名であり、身元も公表されている点
  • ブログ」(個人が日記や意見表明を記すサイト)ではなく、記述が客観的であり、サイト内で示されている文献もアクセスが可能である点
  • 経済学書の翻訳家として国内ではおそらく最も有名な山形浩生氏が翻訳している点(彼の機会費用を考えれば一定のシグナルにはなると思います)
  • シカゴ学派 (経済学)の編集者の皆さんが外部リンクの存在を長年黙認していた点

の四つです。もちろん、学術書と比べれば信頼性が比較的低いことも事実であり、最初に引用した際には私も迷ったのですが、現行の参考文献の中にも経済学史の専門家ではない方の著書が多く含まれていることを考えたら、リンク先サイトの記述の信憑性は十分にあると、私は考えております。--Kobayashi Tsutomu会話2015年10月26日 (月) 05:39 (UTC)[返信]

今後の編集における指針[編集]

リンク先サイトの記述の信憑性に問題があるとお考えの方がおられましたら、このノートにご意見をお記ください。話し合いの結果、リンク先サイトの記述の信憑性が認められない、という結論に至った場合は、外部リンクの節を削除し、リンク先サイトを出典としている記述に「疑問点」などを追記すればよいと思います。ただし、本節で結論に至るまでは(すなわち、「外部リンク」の節にリンクを残している限りは)、リンク先サイトの記述をむやみに削除するべきではない、と考えております。--Kobayashi Tsutomu会話2015年10月26日 (月) 05:39 (UTC)[返信]

Wikipedia:信頼できる情報源#オンラインや自己公表された情報源の利用を読んだ限りでは問題ないと思います。書籍や論文等に代替的な記述が見つかればそちらを引用元にすべきだとは思いますが、とりあえず現状は問題ないのではないでしょうか。--John Robertson, for japanese会話2015年11月5日 (木) 05:18 (UTC)[返信]
問題の記述はこれまで再三に渡って[20][21][22]IP利用者氏(毎回IPが異なるが「編集内容の要約」欄から同一利用者と思われる)によって(「ブログ等の偽装ソースで悪質編集」、「偽編集」、「独自研究癖」という漠然としたコメントしか残さずに)一括的に除去されていました。しかし、先日のIP利用者氏の編集[23]では、ついに同箇所が除去されていませんでした!例の如く彼は具体的な指摘やノートでの議論参加をなさっていないので正確な意図は推し量りかねますが、この事実は彼が外部リンク「シカゴ学派」の妥当性を認められたと考えてよさそうです。ということでこの問題は解決:)--John Robertson, for japanese会話2015年12月3日 (木) 04:01 (UTC)[返信]

「主張した政策」について[編集]

経緯[編集]

シカゴ学派 (経済学)#主張した政策は、チンドレ・マンドレさんの2014年3月30日 (日) 15:36から2014年11月9日 (日) 13:09 にかけての一連の編集によって追加された節です。当初は「主張の例」という名前でした。その後、2015年5月6日 (水) 08:51のEarlylightさんの編集で現在の「主張した政策」という名前になりました。節そのものがいったん削除されたこともありましたが、49.253.221.117さんのご判断で、2015年10月23日 (金) 15:43 の編集によって節が復活しました。--Kobayashi Tsutomu会話2015年10月26日 (月) 06:51 (UTC)[返信]

問題点[編集]

第一の問題として、ミルトン・フリードマンゲーリー・ベッカーといった個別の経済学者の頁と内容が重複しています。特にフリードマンに関する内容についてはミルトン・フリードマン#主張した具体的政策と記述が完全に重複しており、節の削除や統合といった何らかの措置が必要と考えております。
第二の問題として、決してシカゴ学派の総意として何かを主張した訳でもないのに、特定の経済学者個人の主張を「シカゴ学派」の頁の「主張した政策」として記述することは、特定の誤解を招くミスリーディングな記述だと思います(ミルトン・フリードマンの頁の編集で「チンドレ・マンドレという方がアチコチで偏りの大きい大幅編集繰り返している」というご指摘が過去にあり、元々そういった意図のある編集だったのかもしれません)。公平の観点から言えば、シカゴ学派に属する一通りの経済学者の「主張した政策」をリストするべきだと思いますが、それは非現実的でしょう。
以上の観点から、当面は現状のまま重複のテンプレート等を付けて節を残しておこうと考えておりますが、いずれは「主張した政策」の節は削除した方が良いと考えております。これについてご意見がある方は本節にお記ください。--Kobayashi Tsutomu会話2015年10月26日 (月) 06:51 (UTC)[返信]

節「主張した政策」の削除については私も賛成します。「学派」という記事の性質上、下位区分の学派(新制度派、マネタリズムなど)や個別の経済学者に関する記事と内容が重複してしまうことは仕方がないと思いますが。同様に、単独で記事が存在する「マネタリズム」「新制度派」、「公共選択学派」等についても、シカゴ学派の歴史としての記述に留め、その他はTemplate:See alsoを用いるのがよいと思います。それから、フリードマンの主張のみを強調し過ぎることの語弊性についても概ね賛成です。私が引用した日経新聞(2011年10月20日)中の伊藤隆敏氏や、コース(1992)の「訳者あとがき」中の宮沢健一氏らもそのことに言及されていましたが、シカゴ大学関係の経済学者はその業績が誤解されることが多いのも確からしいからですね。不特定多数の方がご覧になるWikipediaだからこそ、語弊のある記述は避けなければいけません。--John Robertson, for japanese会話2015年10月29日 (木) 04:29 (UTC)[返信]
とりあえず、個別の経済学者のページへのリンク(Template:See)としました。節「主張した政策」そのものの削除については異論があるかもしれないので、このような形でしばらく節を残しておこうと思います。--John Robertson, for japanese会話2015年11月5日 (木) 05:18 (UTC)[返信]

問題の節を除去しました[編集]

とりあえず一ヵ月経ちましたが、異論が特に無いようでしたので、「主張した政策」の節は除去しました。(節の復活など)ご意見がある方はノート本節にお記し下さい。--Kobayashi Tsutomu会話2015年11月30日 (月) 04:33 (UTC)[返信]

49.253.209.209さんが2015年11月30日 (月)の編集で「主張した政策」の節を復活されたようですが、再三申し上げている通り、異論がある場合はこのノートにお記し下さい。--Kobayashi Tsutomu会話2015年12月1日 (火) 03:37 (UTC)[返信]

「(自由市場の優位性を主張していた)ゲーリー・ベッカー」という記述について[編集]

49.253.215.193さんが2015年11月30日 (月)の編集で猪木武徳氏の引用文中に「自由市場の優位性を主張していた」という補足をされました。これは、Taro Yokojiさんの2015年8月10日 (月)の編集における記述を踏襲したものと見受けられます。確かに、トーマス・カリアーはベッカーを自由市場の擁護者として記述しています(その部分がTaro Yokojiさんの記述の意図だったのではないでしょうか)。しかし、猪木氏の「G・ベッカー:経済学は人間学」(『現代経済学の巨人たち』所収)においてはベッカーが「自由市場の優位性を主張していた」という趣旨の記述はないので、引用文中の補足は不適切であると思います。猪木氏はむしろ、「アメリカが競争力を回復するためには、もっと人的資本に重点投資しなければならない、という考え方」(271頁)、「ベッカーの重要な貢献は(中略)個人が市場の外で交換と配分を行うケースを定式化したところにある」(271-272頁)等々と記しており、ベッカーが「自由市場の優位性を主張していた」という立場には否定的です。また、「非市場における行動を含めた広範にわたる人の行動と相互作用のミクロ経済学分析の応用を称えて」という理由でノーベル賞を受賞していたり、「経済分析の範囲をここまで広げた経済学者はベッカーのほかにいない」(271頁)とフリードマンから評されていたりする等、(カリアーのような例外は別として)一般的な評価においてもベッカーは決して「自由市場の優位性を主張していた」という評価には当たらないと思います。何か意図がおありだったのでしたら、このノートにお記し下さい。話が横道に逸れますが、49.253.220.124さん、49.253.221.117さん、49.253.212.31さん、49.253.221.120さん、49.253.215.193さんは同じ方でしょうか?新宿松山では物理的に遠いので別人かと思っていましたが、編集内容から察するにどうやら同一人物のようなので。また、同じ敷地内で利用者名が変わってしまうようでしたら、(それはそれで紛らわしいので)アカウントを作成してログインユーザーとして編集されることをお勧めします。--Kobayashi Tsutomu会話2015年11月30日 (月) 05:45 (UTC)[返信]

それは私のではなく他人の記述をギリギリ残してあげただけで文意が伝わるように書いただけ。元々記載した人物が悪質だというのはお認めになるわけですね?なら、なんで指摘しなかったんでしょうね?不可思議な管理をされてますね--49.253.209.209 2015年11月30日 (月) 12:15 (UTC)[返信]

どのように文意を汲み取れば「元々記載した人物(Taro Yokojiさん)が悪質だとお認めになる」という解釈になるのか理解できません。元々の記述において「ベッカーが自由市場の優位性を主張していた」というのは、カリアー(2012)の記述のことであって、あなたのように猪木氏の引用文の鍵括弧内に(自由市場の優位性を主張していた)と記すと、あたかもそれが猪木氏の解釈であるかのようになってしまうと思いませんか?あなたもWikipediaを編集するのなら、記述の出典がどこにあるか(この場合、カリアーか猪木氏か)を常に意識すべきです。つまり

  • Taro Yokojiさんの記述 - <ベッカーが自由市場の擁護者であるという解釈>はカリヤー(2012)のもの。この解釈と猪木氏の解釈(こちらの方が一般的な解釈だと思います)と矛盾するため対比的に記述された。
  • 49.253.209.209さんの記述 - <ベッカーが自由市場の擁護者であるという解釈>は猪木氏のもの。

と読み取れる訳です。しかし、私が上で指摘しました通り、猪木氏はそういった記述をしていないため、49.253.209.209さんの編集は根本的に誤っている、ということを言いたかったのですが。どうやらあなたは出典先を確認せずに「偽装ソースで悪質編集」だとか「偽編集」という謎のレッテルを貼る癖があるようですね。まずは出典の参考文献を読むことから始めたらいかがですか?--Kobayashi Tsutomu会話2015年12月1日 (火) 03:29 (UTC)[返信]

あなたはあの文章を読んでも独自研究だと理解できないようなので、このページの未来は暗いでしょうね。仲間意識というものはおそろしいものです。財務省かと思いました(笑)『Taro Yokojiさんの記述 - <ベッカーが自由市場の擁護者であるという解釈>はカリヤー(2012)のもの。この解釈と猪木氏の解釈(こちらの方が一般的な解釈だと思います)と矛盾するため対比的に記述された。』というココこそが独自研究なんですけどね。情報の合成といいます。典型的な情報の合成です。おそらくこちらの方が一般的な解釈だと思いますという記述に誤解を解くという力みがにじみ出てるんでしょうねえ。wikiは誤解を解く活動の場じゃないんで、おかしな使い方はやめてください。--49.253.222.32 2015年12月1日 (火) 05:58 (UTC)[返信]
なるほど。49.253.222.32さんがどのようにWikipediaにおける独自研究を誤解されているかがわかりました。Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成によれば、「情報の合成」とは相異なる出典を元に出典には無い推論結果を記述することです。ですから、複数の出典の内容の関係性(Taro Ypkojiさんの例では、出典Aと出典Bの内容が矛盾する、という旨)を明記することはWikipediaでは「独自研究」に当たらない訳です。それどころか、そうした異なる見解の出典の関係性やどちらがより一般的かを明示しながら記述することはWikipediaでは推奨されています(Wikipedia:雑多な内容を箇条書きした節を避ける)。今までは中途半端に前後関係だけ明記してあった箇条書きでしたが、これを機に、「一番の理想は、調和した説明がスムーズな文脈と前後関係で成り立ち、それにより論理的に事項が並べられた記事なのです。」というガイドラインの推奨に従ってより文脈を意識した文章に改編してみましたが、いかがでしょうか。--John Robertson, for japanese会話2015年12月3日 (木) 03:46 (UTC)[返信]
だめですね。箇条書きした節であっても「雑多な内容を箇条書きした節」とは限らないですから。一般的というのは二次資料が必要です。一般的と称して見解を統一するなど、wikiに全く求められていない役割です。評価とタイトルをつけておきながら、評価を統一するなどむしろ恥ずべき行為でしょう。--49.253.219.108 2015年12月3日 (木) 10:16 (UTC)[返信]
Wikipedia:中立的な観点を一読されることを強くお勧めします。「中立的な観点とは」の節に「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す。」という項目があるのに気づきましたね?John Robertson氏の編集は「評価の統一(?)」等ではなく、「対立する観点の相対的な勢力差を正確に示す」に該当することが理解して頂けたと思います。「ノーベル賞選考委員が自由主義的経済学者に好んで賞を与えているためシカゴ学派とされる学者にノーベル賞受賞者が多い」と考える論者がいることは確かに事実であり、Robertson氏もカリアーの引用文事態は除去せずに残されています。しかし、それはあくまでもカリアーという経済学史の専門家でも新制度派/新社会学派の研究者でもない一論者の主張にすぎません。ノーベル賞選考委員の公式見解も先に示しました通りであり、猪木武徳氏を始めとする(少なくとも日本の)経済学史家の中でそのような主張を真剣にされている方を私は知りません。「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す。」というWikipediaの方針は、このような陰謀論や都市伝説のような主張と、専門家による主張との峻別を明記することを我々に要請しているということを理解しましょう。ちなみに、カリアーの著書はハイエクをシカゴ学派の代表的経済学者として挙げている等、内容の質にかなり問題があると思います(ハイエク研究者にとって彼がシカゴ学派と距離を置いていたというのが定説であることはご存知でしょう)。それから、ノーベル賞の公式サイトの記述内容が一般的でない、という発想はよくわかりません。ノーベル賞の受賞理由が世界中の第一級の専門家たちの推薦を反映していることはあなたでもご存知だと思います。ある経済学者に対する一般的な評価を示す資料としてノーベル賞の公式コメントよりも信頼性があるものがあるならば、ぜひ伺いたいです。またこの件について二次資料を出すべきかどうかについてはWikipedia:信頼できる情報源をご覧になれば理解して頂けると思います。--Kobayashi Tsutomu会話2015年12月4日 (金) 08:59 (UTC)[返信]
「ちなみに、カリアーの著書はハイエクをシカゴ学派の代表的経済学者として挙げている等、内容の質にかなり問題があると思います」「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す。」というWikipediaの方針は、このような陰謀論や都市伝説のような主張」←こういうのをあなたが評価するなと言ってるんだよ。それがわからんこと自体が独自研究癖なんです。カリアーに問題あるなら、そういう二次資料の提出が必要。勢力差も二次資料を出せば解決する、以上--49.253.215.140 2015年12月4日 (金) 16:03 (UTC)[返信]
あなた方の勘違いの理由がはっきりと分かりましたよ。猪木氏はカリアーについて語っていない。これに尽きる(猪木氏はカリアーへの反論に使うことはwikiでは出来ません。ブログでは可能です)--49.253.215.140 2015年12月4日 (金) 16:45 (UTC)[返信]
Wikipedia:中立的な観点の「よくある質問」をご覧ください。「われわれの任務は、主流派の(科学者の)意見を主流派のものとして提供し、少数派の(時として疑似科学的な)意見を少数派のものとして提供し、更に、科学者がそれら疑似科学の意見をどのように受け止めているかを説明することです。これは全て論争をフェアに説明するという任務の一部です。」という記述に気づきましたね?ノーベル賞選考委員の意図やそれに関する一般的解釈についての主流派の意見がノーベル賞選考委員会の公式発表と一致する、という見解や逆にノーベル賞選考委員のサーベイが世界中の(主流派の)経済学者たちの見解を反映している、という点に関しては流石に異論は無いと思います。他方カリアーの、コースやベッカーが自由市場の擁護者である、という見解は先の「主流派の意見」に相対して「少数派の意見」である、ということにも異論は無いでしょう。あなたは「猪木氏はカリアーについて語っていない[24]」と仰いましたね。確かに猪木氏はカリアー本人についてコメントしている訳ではありません。しかし、猪木氏の引用箇所は、「主流派の学者が少数派の意見をどのように受け止めているか」を説明しており、これはWikipediaがわれわれに課している義務の一つであるということを理解して下さい。なお、Wikipedia:独自研究は載せないにおいても「観点がいかに顕著なものであるか、多数派に支持されているのか少数派に支持されているのかなど、その観点の背景に関する情報を提供してください。」とあり、こちらも引用元が専門家内においてどのような位置付けにあるかの判断を要請しています。あなたは「真剣な研究者が誰かは集団編集人が決める話ではないのです」と仰っていますが、Wikipediaの「方針」のどこにそのような要請があるのでしょうか。「形式的な表現が私の編集」、「私が要求しているのは書式[25]と仰る以上、そろそろ方針やガイドラインを一読されることをお勧めいたします。あなたの個人的な脳内ルールに従って「猪木氏をカリアーへの反論に使うことはwikiでは出来ません [26]」、「そういう二次資料の提出が必要 [27]」、「wikiは二次資料という基本を知らなすぎる [28]」等と仰られても困ります。Wikipediaのルールに従う気が無いなら、あなたのお得意のブログ活動でもなさって下さい。--Kobayashi Tsutomu会話2015年12月7日 (月) 03:51 (UTC)[返信]
誤解されているようなので一箇所補足しておきますと、件の引用サイトは「二次資料」です。一通り読めばわかるはずですが、こういった選考委員のコメントというのは、受賞者の業績内容やそれが一般的にどのように評価されているか等を紹介するものです。したがって、文中に「一次資料」の名前が幾つも挙がっており、読めば誰でもそれが「二次資料」であることは分かると思っていましたが・・・。--Kobayashi Tsutomu会話2015年12月7日 (月) 03:59 (UTC)[返信]

導入部について[編集]

「シカゴ学派」という名称に至る理由について[編集]

49.253.215.140氏は2015年12月5日 (土)の編集で「1920年代にシカゴ大学経済学部を中心に形成され、1960年代前後からこの名で呼ばれるようになった」という(十分な出典があると思われる)記述を「シカゴ大学の経済学部を中心に受け継がれてきたことから、この名で呼ばれている。」に改変されました。どのような意図があったのかは推し量りかねますが、Wikipediaが禁止する独自研究に抵触する恐れがあります。というのも、記事内で扱われているそれぞれの引用文献には

  • 1920年代なかば、(・・・)伝統を築いた。」 - 記述A
  • シカゴ・スクールという言葉が広く用いられるようになったのは、1960年代前後(・・・)」 - 記述B

とありますが、「シカゴ大学の経済学部を中心に受け継がれてきたことから、この名で呼ばれている。」(記述C)という因果関係を意味する記述はありません。既出の参考文献の記述内容を組み合わせることによって「シカゴ大学の経済学部を中心に受け継がれてきたことから、この名で呼ばれている。」(記述C)という推論をすることも出来るかもしれませんが、「Aであり、Bである、ゆえにCである」型の論証はWikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成によって禁止されています。また仮に、この記述がそうした推論に基づくものではない場合、今度はWikipedia:検証可能性の違反に当たります。元々十分な出典があった記述[29]をわざわざ出典のない記述に改変したのですから、何か意図がおありなのでしょう。あるいは、元々の(出典が明記された)記述に問題があると仰りたいのであれば、その旨をノートにお記し下さい。
ところで、49.253.215.140氏は以前のIP利用者(49.253.220.124、49.253.221.117、49.253.212.31、49.253.221.120、49.253.215.193、49.253.209.209、49.253.219.108)と同一の方でしょうか?もしそうならば、再三申し上げております通り、同一利用者である旨を記すなり、ログインするなり、何らかの対処をして頂きたいです(もちろん、議論に参加する意思があるのであればですが)。そうできない理由があるのであれば伺いたいです。--Kobayashi Tsutomu会話2015年12月7日 (月) 05:49 (UTC)[返信]

異論がありませんでしたので、当該箇所を除去し、元の記述を戻しました。ご意見がある方はこの節でその旨をお記し下さい。--Kobayashi Tsutomu会話2015年12月16日 (水) 03:34 (UTC)[返信]