トスティ・ゴドウィンソン

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トスティ・ゴドウィンソン(Tostig Godwinson, 1026年? - 1066年9月25日)は、11世紀イングランドアングロ・サクソンの貴族(伯爵)。ウェセックス伯ゴドウィンの三男。最後のアングロ・サクソン系イングランド王であるハロルド2世の弟、エドワード懺悔王の妃エディスの兄。

生涯[編集]

1051年フランドル伯ボードゥアン4世の娘ユーディトと結婚、1055年に義弟のエドワード懺悔王にイングランド北部のノーサンブリア伯に任じられる。しかし1065年、失政により領内で反乱が起きたため解任され、妻の実家を頼ってイングランド国外へ出た。

1066年1月、エドワード懺悔王が死去する。子がいなかったため、姻戚関係にあったトスティの兄ウェセックス伯ハロルドがイングランド王に即位した。当時、フランドル地方にいたトスティは兄の戴冠に反対し、兵と軍船を集めると、4月末から5月の初め頃にワイト島へ渡った。イングランド南部から北部の沿岸地域を荒らし回ったが、ノーサンブリア伯モルカールとマーシア伯エドウィンに駆逐された。船でスコットランドへ逃れたトスティは、スコットランドマルカム3世の庇護を受け、夏の間そこで過ごした。

その後、ノルウェーハーラル3世の臣下となり、代わりにイングランド征服の支援を受けることになる。トスティとノルウェー王の軍勢はイングランド北部のハンバー川を遡ってヨーク付近に上陸し、9月20日フルフォードでノーサンブリア伯とマーシア伯の連合軍を破った。戦いに勝利し、ヨークに入ったノルウェー軍は町の有力者達から人質を取り、食糧を徴収するとウーズ川に停泊してある船に戻った。計画では、北部一帯から更に多くの人質(兵員?)をヨーク郊外のスタンフォード橋で集め、南下することになっていた。また、目論見では、イングランド王ハロルド2世はノルマンディー公ギヨーム2世(後のウィリアム1世)の侵攻に備えるために、南で身動きがとれないでいるはずであった。

ところが、トスティらの上陸を察知したハロルド2世は、大軍を率いてロンドンから北上を続け、9月25日にはヨークに達していたのである。同日、トスティとハーラル3世は、船から一部の兵を率いてスタンフォード橋へ向かった。油断していたノルウェー軍は、そこでイングランド軍の奇襲を受ける(スタンフォード・ブリッジの戦い)。『ヘイムスクリングラ』によると、トスティは開戦前にハロルド2世からノーサンブリアの領地を与える代わりに降伏するよう勧告されたという。これに対し、かつて自分を援助しなかった兄の非情を詰り、ハーラル3世との信義のために申し出を断った。両軍の激闘は日没まで続いたが、ついにイングランド軍側の勝利に終わり、トスティはハーラル3世と共に戦死した。

イングランド北部を平定したハロルド2世だったが、南に上陸したギヨーム2世率いるノルマン軍と10月14日ヘイスティングズの戦いで激突、敗死した。勝利したギヨーム2世はイングランド王ウィリアム1世として即位、ノルマン朝を開いた。未亡人ユーディトは後にバイエルン公ヴェルフ1世と再婚した。

関連項目[編集]