ディルク1世 (ホラント伯)

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ディルク1世
Dirk I
フリースラント伯
16世紀に想像として描かれたディルク1世
在位 896年頃 - 928/39年

出生 870年
死去 928年/944年(諸説あり)
埋葬 ホラント伯領、エグモント修道院
配偶者 ヘーファ・ファン・ハマラント
子女 ディルク2世
家名 ホラント家
父親 おそらくへルルフ2世
あるいは、ラドボド(フリースラントのプリンス)
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ディルク1世オランダ語: Dirk Iフリジア語: Durk I、Diderik、ラテン語: Theoderic、Thidericus Fresonieドイツ語: Dietrich)は、ホラント伯爵ホラント伯)で、896年ころから、928年ないし939年ころまでその地位にあったと考えられている。ただし、生没年、在位期間とも諸説がある。

「フリースラント伯爵」[編集]

ディルク1世の称号は、実際には「フリースラント伯爵(フリジア伯爵)」であった。彼は、フリースラント伯爵であったへルルフ2世英語版の息子と考えられているが、へルルフは885年に、ヴァイキングの君主で「海の王」と称されていたゴドフリード英語版を現在のスパイク英語版に近いヘレスピック (Herespich) で暗殺した伯爵たちの一人であった[1]

ディルク1世の生涯については、ほとんど何もわかっていない上、現代の説では彼には同名の息子ディルクがいたとも考えられており、伝統的に考えられてきたように息子と推測されるディルク2世が後を継いだのではなく、まず(ディルク2世とは別人の)同名の息子(「ディルク1世ビス (Dirk I bis)」とも称される)が後を継いだのではないかとも推測されている。

エグモント修道院の創建[編集]

922年、ディルクは、西フランク王国単純王シャルル3世から、現代のオランダ北ブラバント州南端のブラーデルにあたる「ブラーデラ (Bladella)」に、「エグモント (Egmond) と呼ばれる土地」を与えられた。その後、ディルクは、この土地に女子修道院を建設し、修道女たちに家系の安寧を祈らせた。これが、後年のエグモント修道院英語版の起源となった。

ディルク2世英語版の統治下では、木造だった女子修道院が石造に建て替えられ、聖アダルベルト英語版の遺体が納められた[2]。当時、アダルベルトは広く知られた存在ではなかったが、その時点より二百年ほど前に一帯におけるキリスト教の布教に尽くしたと伝えられていた。修道院の施設は、後には修道女たちに代わって、ヘントから移ってきたベネディクト会の修道士たちによって使用された。伯爵ディルクや、その子孫たちの多くは、この修道院の教会に埋葬された。

子女[編集]

ディルク1世はハマラント伯メギンハルト4世の娘ヘーファ(Geva)と結婚し、以下の子女をもうけた。

脚注[編集]

  1. ^ Annales Vedastini 885, MGH SS I, p. 522.
  2. ^ D.E.H. de Boer & E.H.P. Cordfunke (2010), Graven van Holland, Walburg Pers, Zutphen, p. 19

参考文献[編集]

先代
へルルフ2世
ホラント伯
(フリー以西のフリースラント伯爵)
921年 - 928年
(諸説あり)
次代
ディルク2世