グリゴル・ヴァシャゼ

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グリゴル・ヴァシャゼ
გრიგოლ ნოდარის ძე ვაშაძე
生年月日 (1958-07-19) 1958年7月19日(65歳)
出生地 グルジア・ソビエト社会主義共和国 トビリシ
出身校 モスクワ国際関係大学
所属政党 統一国民運動

ジョージア (国)の旗 ジョージア
外務大臣
在任期間 2008年12月6日 - 2012年10月25日
大統領 ミヘイル・サアカシュヴィリ

ジョージア (国)の旗 ジョージア
文化・遺跡保護・スポーツ大臣
在任期間 2008年11月2日 - 2008年12月10日
大統領 ミヘイル・サアカシヴィリ

ジョージア (国)の旗 ジョージア
外務副大臣
在任期間 2008年2月6日 - 2008年11月2日

在任期間 2020年12月11日 - 現職

在任期間 2019年3月24日 - 2020年12月15日
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グリゴル・ノダリス・ゼ・ヴァシャゼグルジア語: გრიგოლ ნოდარის ძე ვაშაძეグルジア語ラテン翻字: Grigol Nodaris dze Vashadze1958年7月19日 – )は、ジョージア政治家外交官ミヘイル・サアカシヴィリ政権下で文化・遺跡保護・スポーツ大臣(2008年)と外務大臣(2008年–2012年)を歴任。

来歴[編集]

グリゴル・ヴァシャゼは1958年にグルジア・ソビエト社会主義共和国トビリシにて誕生。1975年にトビリシ第61中等学校を卒業。1981年にモスクワ国際関係大学を卒業し、ソビエト外務省に入省。ソビエトの外交チームに加わり、第一次戦略兵器削減条約についてアメリカ合衆国との交渉に関わった。彼はソビエト外務省にて国際機関部および宇宙核兵器省に所属した。また1988年から1990年までソビエト外交アカデミー国際法を研究し、修士号を取得した。1990年から2008年まで個人事業を経営し、主にモスクワニューヨークを拠点とした。彼は「Georgia Arts Management」と「Gregory Vashadze and BR」の創業者として、事業を運営した。

2005年にジョージアに帰国。2008年2月、ダヴィト・バクラゼの後任として外務副大臣に着任。2008年4月には大臣代行としての職務も行った。2008年12月、エカテリネ・トケシェラシヴィリに代わって外務大臣に昇任。2012年10月、ビジナ・イヴァニシヴィリ内閣の発足に伴い、外務大臣を退任した。

2018年大統領選挙英語版に出馬。同じ元外相のサロメ・ズラビシュヴィリとの争いとなり、10月28日の投票の結果、得票率38.6%のズラビシュヴィリに次ぐ得票率37.7%を獲得し、決選投票に進んだ[1]が、11月28日の決選投票で得票率40.5%にどどまり、59.5%のズラビシュヴィリに破れた[2]

私生活[編集]

ヴァシャゼは1988年に結婚。相手は著名なバレエダンサーニーナ・アナニアシヴィリであった。彼らは子供を2人(長男ノダル、長女エレネ)をもうけた[3]

ヴァシャゼは母語ジョージア語の他、ロシア語英語ポルトガル語イタリア語スペイン語フランス語を扱うことができる[4]

二重国籍と市民権の問題[編集]

ヴァシャゼはかつてジョージアロシア二重国籍を保持していた。2008年12月、ロシアの新聞コメルサントによるインタビューでロシア市民権を拒否するつもりはないと発言し[5]、野党各党より強く批判された[6]

ロシア国家院議員のセミヨン・バグダサロフは、ヴァシャゼの保持するロシア市民権が「反ロシア的」であるとして、ヴァシャゼのロシア市民権を剥奪するよう提案したが、議会はこの提案は違法であるとして速やかに棄却した。この問題の後、ヴァシャゼは自らロシア市民権を放棄した[7][8]

参考文献[編集]