アダム・ルドヴィク・チャルトリスキ

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アダム・ルドヴィク
Adam Ludwik
チャルトリスキ家

出生 (1872-11-05) 1872年11月5日
フランスの旗 フランス共和国
パリ
死去 (1937-06-26) 1937年6月26日(64歳没)
ポーランドの旗 ポーランド
ワルシャワ
配偶者 マリア・ルドヴィカ・クラシンスカ
子女 一覧参照
父親 ヴワディスワフ・チャルトリスキ
母親 マルグリット・ドルレアン
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アダム・ルドヴィク・チャルトリスキポーランド語: Adam Ludwik Czartoryski, 1872年11月5日 - 1937年6月26日)は、ポーランドの貴族、チャルトリスキ家の公(książę)。シェニャヴァ英語版の初代オルディナト

生涯[編集]

チャルトリスキ公家の当主ヴワディスワフ・チャルトリスキと、その2番目の妻でヌムール公の娘マルグリット・ドルレアンの間の長男として生まれた[1]。父方の祖父はアダム・イェジ・チャルトリスキ公、母方の曽祖父は7月王政期のフランス王ルイ・フィリップである。1894年に父の死を受けて公家の当主となり、1897年にシェニャヴァ英語版の初代オルディナトとなった。1899年に叔母イザベラ・ジャウィンスカ英語版伯爵夫人からグウフフ英語版の所領を弟ヴィトルトポーランド語版と共に相続した。同年、日本への旅行中には多くのギリシャの美術品を買い付けている。非常に裕福なマグナートで、当時の資産価値は公家の美術所蔵品を除いても450万オーストリア・クラウンと見積もられていた。

1901年に裕福な女子相続人のマリア・ルドヴィカ・クラシンスカ英語版女伯爵(1883年 - 1958年)と結婚し、間に3男5女の8人の子女をもうけた[1]

1911年に弟のヴィトルトが亡くなり、全遺産を受け継いだ。

1914年に第1次世界大戦が始まるとチャルトリスキはオーストリア帝国軍の将校として出征した。大戦中、妻の実家がザクセンフリードリヒ・アウグスト3世と縁故があったおかげで、チャルトリスキ美術館の最も重要な所蔵品はドレスデンに避難させることが出来た。大戦後、チャルトリスキはロシア軍に略奪された美術館の所蔵品に対する返還要求を行い、1921年のリガ平和条約締結ののち数年を経て返還を実現させた。この間、公家はポーランドに帰国し永住したため、パリでの一族の根城だったオテル・ランベールはアパルトマンに改装された。

1937年に死去し、長男のアウグスティン・ユゼフ・チャルトリスキ英語版が公家を継いだ。長女のマウゴジャータ・イザベラ・チャルトリスカ英語版ブルボン家ガブリエーレ王子に嫁いだ。

子女[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b Minakowski, Marek Jerzy. “Adam Ludwik ks. Czartoryski na Klewaniu i Żukowie h. Pogoń Litewska (ID: 3.662.397)”. 2012年4月1日閲覧。

関連項目[編集]

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