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先代{{仮リンク|ナーラヴァルマン|en|Naravarman}}の子。[[1134年]]の碑文ではヤショヴァルマンは[[諸王の王]]であると記されているが、翌[[1135年]]の村への寄進を記録した[[ウッジャイン]]碑文には、それよりも地位の低い[[マハラジャ]]であると記されている。 |
先代{{仮リンク|ナーラヴァルマン|en|Naravarman}}の子。[[1134年]]の碑文ではヤショヴァルマンは[[諸王の王]]であると記されているが、翌[[1135年]]の村への寄進を記録した[[ウッジャイン]]碑文には、それよりも地位の低い[[マハラジャ]]であると記されている。 |
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父王の代から始まっていた[[チャウルキヤ朝]]の{{仮リンク|ジャヤシンハ・シッダラージャ|en|Jayasimha Siddharaja}}の侵攻を受けた。[[ヘーマチャンドラ]]の著書によると、ジャヤシンハは聖地であるウッジャインを訪れたがったがためにパラマーラ朝への侵攻を引き起こしたとされる。この結果、パラマーラ朝は敗北を喫してヤショヴァルマンは捕虜となり<ref>{{Citation|和書|last=高田|first=修|author-link=高田修|date=1986年10月1日|contribution=チャウルクヤ|editor-last=池内|editor-first=宏|editor-link=池内宏|editor2-last=矢野|editor2-first=仁一|editor2-link=矢野仁一|editor3-last=橋本|editor3-first=増吉|editor3-link=橋本増吉|title=東洋歴史大辞典|edition=縮刷復刻|volume=中|pages=1157|publisher=[[臨川書店]]|isbn=978-4653014690}}</ref>、ジャヤシンハによって投獄された。都[[ダール (インド)|ダール]]やウッジャインを含むパラマーラ朝の領土の大半がチャウルキヤ朝の支配下に置かれ、ジャヤシンハは配下のマハーデーヴァを[[アヴァンティ国|アヴァンティ]]={{仮リンク|ラジャマンダラ|label=マンダラ|en|Rajamandala}}([[マールワー]])の総督に任じた<ref>{{Cite journal|和書|author=三田昌彦 |date=2011-03 |title=チャウルキヤ朝宗主勅書様式論 |journal=名古屋大学文学部研究論集. 史学 |ISSN=0469-4716 |publisher=名古屋大学文学部 |issue=57 |page=88 |naid=120002911685 |doi=10.18999/jouflh.57.87 |url=https://doi.org/10.18999/jouflh.57.87 |
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1142年の{{仮リンク|ジャルラパタン|en|Jhalrapatan}}碑文によると、ヤショヴァルマンが脱獄して{{仮リンク|カリ・シンド川|en|Kali Sindh River}}渓谷下部の小国を治めたことが示唆されている。 |
1142年の{{仮リンク|ジャルラパタン|en|Jhalrapatan}}碑文によると、ヤショヴァルマンが脱獄して{{仮リンク|カリ・シンド川|en|Kali Sindh River}}渓谷下部の小国を治めたことが示唆されている。 |
2022年3月17日 (木) 06:14時点における版
ヤショヴァルマン यशोवर्मन् | |
---|---|
諸王の王→マハラジャ | |
在位 | 1133年頃 - 1142年頃 |
出生 |
不詳 |
死去 |
不詳 |
王朝 | パラマーラ朝 |
父親 | ナーラヴァルマン |
宗教 | ヒンドゥー教 |
ヤショヴァルマン(サンスクリット語: यशोवर्मन्, ラテン文字転写: Yashovarman, 生没年不詳)は、パラマーラ朝の第14代国王(在位:1133年頃 - 1142年頃)。
生涯
先代ナーラヴァルマンの子。1134年の碑文ではヤショヴァルマンは諸王の王であると記されているが、翌1135年の村への寄進を記録したウッジャイン碑文には、それよりも地位の低いマハラジャであると記されている。
父王の代から始まっていたチャウルキヤ朝のジャヤシンハ・シッダラージャの侵攻を受けた。ヘーマチャンドラの著書によると、ジャヤシンハは聖地であるウッジャインを訪れたがったがためにパラマーラ朝への侵攻を引き起こしたとされる。この結果、パラマーラ朝は敗北を喫してヤショヴァルマンは捕虜となり[1]、ジャヤシンハによって投獄された。都ダールやウッジャインを含むパラマーラ朝の領土の大半がチャウルキヤ朝の支配下に置かれ、ジャヤシンハは配下のマハーデーヴァをアヴァンティ=マンダラ(マールワー)の総督に任じた[2]。
1142年のジャルラパタン碑文によると、ヤショヴァルマンが脱獄してカリ・シンド川渓谷下部の小国を治めたことが示唆されている。
都ダールの奪還は、次代のジャヤヴァルマン1世によって果たされることになる。
出典
- ^ 高田修 著「チャウルクヤ」、池内宏; 矢野仁一; 橋本増吉 編『東洋歴史大辞典』 中(縮刷復刻)、臨川書店、1986年10月1日、1157頁。ISBN 978-4653014690。
- ^ 三田昌彦「チャウルキヤ朝宗主勅書様式論」『名古屋大学文学部研究論集. 史学』第57号、名古屋大学文学部、2011年3月、88頁、doi:10.18999/jouflh.57.87、ISSN 0469-4716、NAID 120002911685。
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