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高力一成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
高力 一成
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正15年(1587年[1]
死没 寛永6年8月2日1629年9月18日[1]
別名 但馬[1]
墓所 高運寺(山形県鶴岡市[1]
主君 酒井家次忠勝[1]
高崎藩/高田藩/庄内藩 家老[1]
氏族 高力氏[1]
父母 父:高力一次[1]
兄弟 一成喜左衛門朝比奈泰基の妻、中根小右衛門の妻[2]
田舎姫[注釈 1][1]
一方一房、市之丞、松平久昌の妻、内田正信の妻、高力数馬の妻[3]
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高力 一成(こうりき かずなり)は、江戸時代前期の庄内藩家老

略歴

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岩槻浜松島原藩主を歴任した三河高力氏の一族。祖父の高力長直徳川家康に仕えて戦功があり、父の一次は家康の小姓を務めた後、重臣酒井忠次に附属させられてその家老となった[1][4]

一成は父の跡を継いで酒井家次忠勝の二代に家老として仕え、石高は4,100石に達し与力20騎を預けられた。また忠勝娘の田舎姫を妻に迎えている。慶長20年(1615年大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで活躍[1][5]元和8年(1622年)忠勝が旧最上氏の庄内藩に転封となると、一成は亀ヶ崎城鶴ヶ岡城の接収を担当した[6]

寛永6年(1629年)43歳で没。家督は嫡男の一方が継承した[1][5]

脚注

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注釈

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  1. ^ 酒井忠勝の娘[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『庄内人名辞典』, p. 285.
  2. ^ 『鶏肋編』, pp. 526–527.
  3. ^ 『鶏肋編』, pp. 526–528.
  4. ^ 那須 1986, p. 87.
  5. ^ a b 那須 1986, pp. 87–88.
  6. ^ 那須 1986, pp. 5–11.

参考文献

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  • 庄内人名辞典刊行会 編『新編 庄内人名辞典』大瀬欽哉(監修)、庄内人名辞典刊行会、1986年。 
  • 那須貞太郎 編『西川町史編集資料』 第14号、西川町教育委員会、1986年。 
  • 山形県史編さん委員会 編『山形県史』 資料編6《雞肋編 下》、巌南堂書店、1961年。