高力一成
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正15年(1587年)[1] |
死没 | 寛永6年8月2日(1629年9月18日)[1] |
別名 | 但馬[1] |
墓所 | 高運寺(山形県鶴岡市)[1] |
主君 | 酒井家次、忠勝[1] |
藩 | 高崎藩/高田藩/庄内藩 家老[1] |
氏族 | 高力氏[1] |
父母 | 父:高力一次[1] |
兄弟 | 一成、喜左衛門、朝比奈泰基の妻、中根小右衛門の妻[2] |
妻 | 田舎姫[注釈 1][1] |
子 | 一方、一房、市之丞、松平久昌の妻、内田正信の妻、高力数馬の妻[3] |
高力 一成(こうりき かずなり)は、江戸時代前期の庄内藩家老。
略歴
[編集]岩槻・浜松・島原藩主を歴任した三河高力氏の一族。祖父の高力長直は徳川家康に仕えて戦功があり、父の一次は家康の小姓を務めた後、重臣酒井忠次に附属させられてその家老となった[1][4]。
一成は父の跡を継いで酒井家次・忠勝の二代に家老として仕え、石高は4,100石に達し与力20騎を預けられた。また忠勝娘の田舎姫を妻に迎えている。慶長20年(1615年)大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで活躍[1][5]。元和8年(1622年)忠勝が旧最上氏の庄内藩に転封となると、一成は亀ヶ崎城・鶴ヶ岡城の接収を担当した[6]。
寛永6年(1629年)43歳で没。家督は嫡男の一方が継承した[1][5]。