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高内弓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高 内弓(こう の うちゆみ/ないきゅう)は、奈良時代人物。名は内雄とも記される。はなし。

経歴

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天平12年(740年)の第二次遣渤海使において、音声を学ぶために大使・大伴犬養に従って渤海に渡ったと推測される[1]。高氏はいくつかの系統があるが[2]、いずれも高句麗渡来氏族であることから、内弓も高句麗系渡来氏族の一人であり、このことが高句麗の継承国と認識されていた渤海への派遣に繋がったと想定される[3]。また、音声(おんじょう)とは音楽のことで[4]、特にを中心とした渤海楽楽器奏法だったとみられる[5]

天平宝字7年(763年)の第七次遣渤海使の帰国船(能登)にて、船師・板振鎌束に連れられて家族とともに日本へ帰国の途に就く。しかし、暴風に遭って針路を失い、舵取り水手が波にさらわれて沈んでしまった。ここで鎌束は風に漂流するこの災難は、異方の婦女や常人ならざる優婆塞を乗船させているためだと主張する。そして、水手たちに命じて内弓の渤海人の妻・緑児・乳母・優婆塞の4人を捕らえて海に投げ落とさせた。しかし、なおも風の勢いは猛烈で10日余り漂流を続けたのち、ようやく隠岐国に辿り着いた[6]。同年10月に鎌束はこの時の措置を罪に問われ、本来は斬刑になるところを、獄に入れられた。

その後の高内弓の消息は明らかでない。なお、10年後の宝亀4年(773年)になって、第八次渤海使の大使・烏須弗が能登国に渡来するが、かつて渤海で音声を学んで日本に帰ったとされる内雄(高内弓)の安否を確認することが遣使の名目である旨を述べている[7]。このことから、高内弓が渤海楽を学んで日本に帰国したことを渤海が重要視していたことが想定される[3]。さらには、これまで日本側が認識していた日本・渤海間の名分関係(日本を上位とする兄弟・君臣関係[8])に反して、烏須弗は渤海・日本を兄弟と称し、続けて高内弓の音声学問に言及していることから、まさに兄弟のように渤海が日本に音声を教えるという、渤海側の自意識が窺われる[1]

系譜

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続日本紀』による[6]

  • 父:不詳
  • 母:不詳
  • 妻:高氏
    • 女子:(?-763)
  • 生母不詳の子女
    • 男子:高広成

脚注

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  1. ^ a b 大日方[2017: 9]
  2. ^ 『新撰姓氏録』左京諸蕃下
  3. ^ a b 大日方[2017: 8]
  4. ^ 荻美津夫「雅楽寮」『日本古代音楽史論』吉川弘文館、1982年
  5. ^ 酒寄雅志「雅楽『新靺鞨』にみる古代日本と東北アジア」『渤海と古代の日本』校倉書房、2001年
  6. ^ a b 『続日本紀』天平宝字7年10月6日条
  7. ^ 『続日本紀』宝亀4年6月12日条
  8. ^ 石井正敏「日本・渤海間の名分関係」佐藤信編『日本と渤海の古代史』山川出版社、2003年

参考文献

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  • 大日方克己「日本・渤海関係のなかの音楽―渤海楽と高内弓・板振鎌束をめぐって―」『社会文化論集:島根大学法文学部紀要社会文化学科編 13』島根大学法文学部社会文化学科、2017年
  • 宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社講談社学術文庫〉、1992年
  • 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年