飯尾常房

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飯尾 常房(いいのお つねふさ[1]応永29年3月19日1422年4月10日〉- 文明17年閏3月23日1485年5月7日〉)は、室町時代武士書家彦六左衛門(ひころくさえもん)の通称で知られる。

室町幕府幕臣の飯尾氏の流れを汲む阿波守護細川氏の家臣の家に生まれる。細川成之に仕えながら堯孝和歌を学び、青蓮院流書道を修めて、後に「飯尾流」と呼ばれる独自の流派を形成した。一時期、足利義政に招かれて右筆を務めている[2]

応仁の乱後の京都の荒廃を嘆いて「汝(なれ)や知る 都は野辺の 夕雲雀 あがるを見ても 落つる涙は」と詠んだ和歌は『応仁記』に採録されて後世に知られることになった[2]

墓所は徳島県吉野川市鴨島町飯尾(明治以前の飯尾村)の報恩寺にあるとされている[3]

脚注[編集]

  1. ^ 『日本人名大辞典』は「いのお」、『国書人名辞典』は「いいのお」、『戦国人名事典』は「いいお」と読ませる。
  2. ^ a b 『日本人名大辞典』
  3. ^ 『国書人名辞典』

参考文献[編集]