関田美智子

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関田 美智子(せきた みちこ、1939年昭和14年)5月10日 - 1976年(昭和51年)5月3日)は、日本登山家である[1][2]

経歴・人物[編集]

東京に生まれ[1][2]東京学芸大学に入学する[1][2]。在学中の1958年(昭和33年)には同大学内のクラブであった女子学生で結成した「凌雪会」の創設にあたり[2]、登山を始めた。卒業後は東京都立心身障害者福祉センターに勤務し[1][2]、その傍らで鹿島槍ヶ岳荒沢奥壁や穂高岳滝谷[1][2]谷川岳一ノ倉沢衝立岩等を登山する[1][2]

1972年(昭和47年)にはアラスカにあるマッキンリー(現在の呼称はデナリ)の南壁に女性登山隊のリーダーとして登山し[2]1974年(昭和49年)には日本マナスル女性登山隊の一員となった[1][2]。1976年(昭和51年)に再度穂高岳を登山するがその途中で滑落死した[1][2]

著書[編集]

  • 『飛翔』- 死去後の1977年(昭和52年)に刊行。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 関田美智子”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社). 2024年3月9日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j 関田 美智子”. 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ). 2024年3月9日閲覧。