鄧良

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鄧 良(とう りょう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の政治家。荊州南陽郡新野県(現在の河南省南陽市新野県)の出身。光武帝の功臣鄧禹の末裔。父は鄧芝

経歴[編集]

父の鄧芝は車騎将軍まで昇ったが、利殖を図ることをしなかったため妻子は飢えや寒さを免れず、延熙14年(251年)に亡くなると家に余財は残っていなかった。

鄧良は父の爵位・陽武亭侯を継承し、景耀年間(258年-263年)に尚書左選郎となった。

炎興元年(263年)、諸葛瞻らが敗死すると、劉禅譙周の策により降伏を選び、侍中・張紹と駙馬都尉・鄧良に印綬と文書を持たせて雒県にいた鄧艾のもとに派遣した。鄧艾は降伏文を得ると大喜びして、二人に返書を持たせて帰還させた。

西晋でも引き続き用いられ、父と同じ広漢太守に任命された。しかし、老母の世話のため「兄弟がおらず、遠郡を授かれば帰るのも非常に難しくなります」と訴えたが却下された[1]

脚注[編集]

  1. ^ 『晋書』庾純伝。鄧良の話題は、庾純の暴言事件で劉斌が近年の事例として挙げた一例で、石苞が司徒、荀顗が太尉なので267-272年の出来事になる。