近藤常子
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近藤 常子(こんどう つねこ、1893年3月1日 - 1963年1月26日[1])は、岐阜県出身の看護師、日本文化講師。ユーゴスラビアに初めて移住した日本人女性である[2]。日本とユーゴスラビアの友好に尽力した[1]。現地名としてマリヤ・スクシェクを名乗った[3]。本名はTsuneko Kondo-Kavese (en) 。マダム・ヤパンカとも呼ばれた。近藤恒子とする資料もある[4][1]。
人物・生涯
[編集]日露戦争後、関東州に移住した[5]。第一次世界大戦中、中国で野戦病院に勤務中、のちに夫となる捕虜のイワン・シュクセク[注 1]の治療に関わり、結婚する。
1920年、リュブリャナ(当時はセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国)に移った[3]。第二次世界大戦中は赤十字の看護婦となり、赤十字最高勲章を受賞している[1]。終戦後、夫と息子を病気で相次いで亡くす。それでも、日本に帰ることなく現地にとどまり、日本文化を広める教室を設立。スパイ容疑をかけられたこともあるが、容疑が晴れた後は国家公認の教室として認められ、講演会なども行っていた。
ユーゴスラビア国民に愛され、1963年に死去した際には国葬が執り行われた[2][注 2]。
家族
[編集]エピソード
[編集]- 嫁入り道具として持ち込んだ清朝や日本の家具・調度品が、スロヴェニア民俗学博物館におさめられている[7]。
メディア
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ハプスブルク帝国海軍の中尉だった[5]
- ^ 熊田忠雄 (2009)によると、当時の朝日新聞を引用しスロベニア政府文化委員会葬として執り行われたとしている。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 熊田忠雄『すごいぞ日本人!―続・海を渡ったご先祖様たち』新潮社、2009年6月。ISBN 4103057726。
- 柴宜弘ほか 編『スロヴェニアを知るための60章』明石書店〈エリア・スタディーズ159〉、2017年9月10日。ISBN 978-4-7503-4560-4。