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赤松連城

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赤松 連城(あかまつ れんじょう、天保12年1月17日1841年2月8日〉 - 大正8年〈1919年7月20日)は、幕末から大正にかけての浄土真宗本願寺派僧侶赤松克麿赤松常子の祖父[1]。俗名は中宇三郎[2]

経歴

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加賀国金沢出身。若狭国妙寿寺にて修行の後、28歳で周防国徳山徳応寺を継ぐ。廃仏毀釈の混乱の中で、大洲鉄然島地黙雷らとともに宗門改革に立ち上がる。

明治5年(1872年)から宗門大谷光尊の命で島地黙雷とヨーロッパに留学し、イギリスなどの教育制度を学んだ。帰国後は宗門の教育制度を改革するとともに東京奠都に伴う寺務所の東京移転計画を阻止し、大教院を事実上の廃仏政策であると批判して島地黙雷とともに反対運動を展開した。

後に大学林綜理(後に「仏教大学」と改称、現在の龍谷大学)・執行長などを歴任する。

法主明如を補佐して本願寺派護持会財団大日本仏教慈善会財団の設立や宗制・寺法・集会の制定・開設を進め、宗派の近代化につくした。だが、大正3年(1914年)に発覚した教団の財務不正問題が法主・鏡如(明如の子)の隠退に発展し、連城も第一線から退いた。

脚注

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  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 13頁。
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 15頁。

参考文献

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  • 福島寛隆「赤松連城」『国史大辞典』第1巻、吉川弘文館、1979年。ISBN 978-4-642-00501-2 
  • 峰島旭雄「赤松連城」『日本歴史大事典』第1巻、小学館、2000年。ISBN 978-4-095-23001-6