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'''戸沢 正令'''(とざわ まさよし、[[文化 (元号)|文化]]10年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]([[1813年]][[2月2日]]) - [[天保]]14年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]([[1843年]][[6月19日]]))は[[出羽国]][[新庄藩]]の第10代藩主。父は第9代藩主・[[戸沢正胤]]。母は[[松平治昭]]の養女・伊与子。正室は[[島津重豪]]の養女・貢子。官位は[[能登国|能登守]]。側室に高山氏がいる。
'''戸沢 正令'''(とざわ まさよし、[[文化 (元号)|文化]]10年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]([[1813年]][[2月2日]]) - [[天保]]14年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]([[1843年]][[6月19日]]))は[[出羽国]][[新庄藩]]の第10代藩主。父は第9代藩主・[[戸沢正胤]]。母は[[蜂須賀治昭]]の養女・伊与子。正室は[[島津重豪]]の養女・貢子。子に[[戸沢正実|正実]]、[[本多忠貫]]、[[岩城隆永]]室。官位は従五位下、[[能登国|能登守]]。側室に高山氏がいる。


1813年正月2日生まれ。幼名は千代鶴。[[1840年]]3月18日、父の隠居により家督を継ぎ、藩主となる。[[国学]]や[[和歌]]への知識が深い教養人であり、「稜威舎集」や「言葉の囚」、「日本書紀伝」、「倭魂」など多くの著作を残している。藩主としても有能で、窮乏化していた藩財政再建のために、これまでの古い制度を全て打破して新たな法律や人材による先進的な藩政改革を目指したが、その矢先である18435月22日、31歳の若さで死去した。後を子の[[戸沢正実]]が継いだ。
文化10年(1813正月2日生まれ。幼名は千代鶴。天保11年([[1840年]])3月18日、父の隠居により家督を継ぎ、藩主となる。[[国学]]や[[和歌]]への知識が深い教養人であり、「稜威舎集」や「言葉の囚」、「日本書紀伝」、「倭魂」など多くの著作を残している。藩主としても有能で、窮乏化していた藩財政再建のために、これまでの古い制度を全て打破して新たな法律や人材による先進的な藩政改革を目指したが、その矢先である天保14年(1843)5月22日、31歳の若さで死去した。後を子の[[戸沢正実]]が継いだ。


法号:仁亮院豪道善雄。墓所:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]三田の常林寺瑞雲院。
法号:仁亮院豪道善雄。墓所:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]三田の常林寺瑞雲院。

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2007年1月11日 (木) 16:21時点における版

戸沢 正令(とざわ まさよし、文化10年1月2日1813年2月2日) - 天保14年5月22日1843年6月19日))は出羽国新庄藩の第10代藩主。父は第9代藩主・戸沢正胤。母は蜂須賀治昭の養女・伊与子。正室は島津重豪の養女・貢子。子に正実本多忠貫岩城隆永室。官位は従五位下、能登守。側室に高山氏がいる。

文化10年(1813年)正月2日生まれ。幼名は千代鶴。天保11年(1840年)3月18日、父の隠居により家督を継ぎ、藩主となる。国学和歌への知識が深い教養人であり、「稜威舎集」や「言葉の囚」、「日本書紀伝」、「倭魂」など多くの著作を残している。藩主としても有能で、窮乏化していた藩財政再建のために、これまでの古い制度を全て打破して新たな法律や人材による先進的な藩政改革を目指したが、その矢先である天保14年(1843年)5月22日、31歳の若さで死去した。後を子の戸沢正実が継いだ。

法号:仁亮院豪道善雄。墓所:東京都港区三田の常林寺瑞雲院。

先代
戸沢正胤
戸沢氏(新庄藩10代)藩主
1840~1843
次代
戸沢正実