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'''太伯'''(たいはく)とは[[中国]][[周]]族の[[古公亶父]]の長男で、[[呉 (春秋)|呉]]の祖とされる人物。[[季歴]]の兄、[[文王 (周)|文王]]の伯父に当たる。[[姓]]は'''姫(き)'''。[[紀元前12世紀]]・[[紀元前11世紀]]頃の人物。泰伯とも
'''太伯'''(たいはく)とは[[中国]][[周]]族の[[古公亶父]]の長男で、[[呉 (春秋)|呉]]の祖とされる人物。泰伯とも。'''虞仲'''は[[古公亶父]]の[[次男]]。『[[史記]]』「周本紀」では弟が虞仲とあるが、「呉世家」では仲雍とある。[[季歴]]の兄、[[文王 (周)|文王]]の伯父に当たる。[[姓]]は'''姫(き)'''。[[紀元前12世紀]]・[[紀元前11世紀]]頃の人物。


古公亶父には長子・太伯、次子・[[虞仲]]、末子・[[季歴]]がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、更に季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。
古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・[[季歴]]がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、更に季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。


これを推し量って太伯と虞仲は季歴に後を継がせるために荊蛮の地へと自ら出奔した。周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り、全身に[[入れ墨|刺青]]をして中華へと帰るに相応しくない人物としてこれを断った。
これを推し量って太伯と虞仲は季歴に後を継がせるために荊蛮の地へと自ら出奔した。周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り、全身に[[入れ墨|刺青]]をして中華へと帰るに相応しくない人物としてこれを断った。

2006年11月30日 (木) 05:21時点における版

太伯(たいはく)とは中国族の古公亶父の長男で、の祖とされる人物。泰伯とも。虞仲古公亶父次男。『史記』「周本紀」では弟が虞仲とあるが、「呉世家」では仲雍とある。季歴の兄、文王の伯父に当たる。姫(き)紀元前12世紀紀元前11世紀頃の人物。

古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、更に季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。

これを推し量って太伯と虞仲は季歴に後を継がせるために荊蛮の地へと自ら出奔した。周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り、全身に刺青をして中華へと帰るに相応しくない人物としてこれを断った。

太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。死んだときに子がいなかったために弟の仲雍が跡を継いだ。(『史記』「周本紀」では弟が虞仲とあるが、「呉世家」では仲雍とある。)

『史記』では世家の第一に「呉太伯世家」を挙げているが、これは周の長子の裔である呉に敬意を表したものであろう。

髪を短く切るのは海の中で邪魔にならないように、刺青をするのは模様をつけることでに対する威嚇となる。この二つの風習は呉地方の素潜りをして魚を採る民族に見られると言う。に関する記述でも同じような風習を行っていることが見られ、これが元となって、中国日本において、倭人は太伯の子孫であるとする説がある。例えば『魏略逸文』や『梁書』東夷伝などに「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う」とある。

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