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'''河野 通忠'''(かわの みちただ、[[文永]]5年([[1268年]]) - 没年不詳)は、[[鎌倉時代]]後期の武士。[[伊予国]]の[[河野通有]]の子。通称は八郎。 |
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[[弘安]]4年([[1281年]])の[[弘安の役]]では、14歳で父とともに従軍して奮戦する。通有父子と戦った[[竹崎季長]]が描かせた『[[蒙古襲来絵詞]]』には「嫡男 河野の八郎」として登場している。後に[[風早郡]]河野郷柚木谷を領有した。 |
[[弘安]]4年([[1281年]])の[[弘安の役]]では、14歳で父とともに従軍して奮戦する。通有父子と戦った[[竹崎季長]]が描かせた『[[蒙古襲来絵詞]]』には「嫡男 河野の八郎」として登場している。後に[[風早郡]]河野郷柚木谷を領有した。 |
2021年8月9日 (月) 13:42時点における最新版
河野 通忠(かわの みちただ、文永5年(1268年) - 没年不詳)は、鎌倉時代後期の武士。伊予国の河野通有の子。通称は八郎。
弘安4年(1281年)の弘安の役では、14歳で父とともに従軍して奮戦する。通有父子と戦った竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』には「嫡男 河野の八郎」として登場している。後に風早郡河野郷柚木谷を領有した。
だが、通有の没後、河野氏の家督は異母弟である九郎通盛が継いでいる。通盛系を正統とする河野氏の系譜『築山本河野家譜』では通盛の生母(河野通久の娘)が通忠を斥けて通盛を当主にして河野氏を繁栄させた筋立てが取られており、『蒙古襲来絵詞』では通有の嫡男として描かれている通忠が、『築山本河野家譜』では家督を狙って河野家の乱す存在として描かれている。これは通有の没後に河野氏で家督を巡る内紛が発生し、その結果として通忠が敗れて嫡流が通盛流に移ったことを示すと推測されている。
また、通忠の子である通貞は越後国魚沼郡上田荘小栗山郷を領していたことが知られており(『予章記』には元亨年間に通忠が恩賞として得たと伝える)、後世の越後河野氏がその子孫であったとみられる。
参考文献[編集]
- 瀬野精一郎「河野通忠」(『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年) ISBN 978-4-02-340052-8)
- 石野弥栄「鎌倉期における河野氏の動向」(『国学院高等学校紀要』19輯、1984年)/改題所収:「鎌倉期河野氏の動向と鎌倉政権」石野『中世河野氏権力の形成と展開』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-145-5)
関連項目[編集]
- 三島神社 (大分県臼杵市)