「何無忌」の版間の差分
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
'''何 無忌'''(か むき、生年不詳 - [[410年]] |
'''何 無忌'''(か むき、生年不詳 - [[義熙]]6年[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]([[410年]][[5月9日]]))は、[[中国]]の[[東晋]]の[[軍人]]。[[本貫]]は[[東海郡]][[郯県]]。 |
||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
[[劉牢之]]の姉妹の子にあたる。[[徐州]]に従事として召し出され、[[太学]]博士に転じた。劉牢之が鎮北将軍として、京口に駐屯すると、無忌は大事があるたびに、議論に参加した。[[ |
[[劉牢之]]の姉妹の子にあたる。[[徐州]]に従事として召し出され、[[太学]]博士に転じた。劉牢之が鎮北将軍として、京口に駐屯すると、無忌は大事があるたびに、議論に参加した。[[隆安]]4年([[400年]])、[[司馬元顕]]の子の司馬彦璋が東海王に封じられると、無忌はその下で東海国中尉となり、広武将軍の号を加えられた。[[元興 (東晋)|元興]]元年([[402年]])、[[桓玄]]のために司馬彦璋が市で殺害されると、無忌は市に入って司馬彦璋のために慟哭した。劉牢之が桓玄に降伏しようとすると、無忌は強く諫めたが、劉牢之は聞き入れなかった。元興2年([[403年]])、桓玄が帝を称すると、無忌は桓玄の吏部郎の曹靖之と交友があったことから、曹靖之を通して任官を求めたが、桓玄は認可しなかった。無忌はやむなく京口に帰った。 |
||
無忌は劉牢之の参軍であった[[劉裕]]と仲が良く、ともに桓玄打倒の策を相談するようになった。この計画に[[劉毅 (東晋)|劉毅]]が加わった。[[404年]] |
無忌は劉牢之の参軍であった[[劉裕]]と仲が良く、ともに桓玄打倒の策を相談するようになった。この計画に[[劉毅 (東晋)|劉毅]]が加わった。元興3年([[404年]])、無忌は劉裕や劉毅らとともに起兵し、京口を占拠した。無忌は勅使と偽ったため、城中に反抗する者を出さなかった。 |
||
桓玄が[[安帝 (東晋)|安帝]]を連れて西に逃亡し、[[建康 (都城)|建康]]に武陵王[[司馬遵]]の承制による政権が発足すると、無忌は輔国将軍・[[琅邪郡|琅邪国]]内史となり、会稽王[[司馬道子]]の部下であった精兵を配属され、[[劉道規]]らとともに劉毅の指揮に従い、桓玄を追撃した。桓玄の部下の何澹之・郭銓・郭昶之らが湓口を守っていたが、無忌らが桑落洲に進軍すると、戦いを仕掛けてきた。何澹之はいつも乗艦に派手な旌旗を立てていたが、それがなかったため、何澹之が不在であることが分かった。しかし何澹之がいなくとも、その乗艦を奪うことには意味があると無忌が主張したため、劉道規は無忌の案に従い、何澹之の乗艦を奪取した。このことをもって、何澹之を捕らえたと喧伝すると、何澹之の兵は動揺した。劉道規は勢いに乗って進軍し、無忌もまた騒がしく兵を進めると、何澹之の軍は潰滅した。無忌らは尋陽に入り、宗廟の主祏や武康公主と琅邪王妃を収容して建康に送り返した。また劉毅や劉道規とともに桓玄を崢嶸洲で撃破した。無忌は巴陵に進軍した。桓玄の従兄の[[桓謙]]と甥の[[桓振]]の間隙に乗じて[[荊州区|江陵]]を奪回した。無忌と劉道規は馬頭の桓謙を攻め、龍泉の[[桓蔚]]を攻撃し、ともに撃破した。しかし桓振に敗れて江陵を再び落とされたため、無忌らは退いて尋陽を守った。無忌は劉毅や劉道規らとともに桓振を攻撃し、夏口の三城を攻め落とし、巴陵を平定した |
桓玄が[[安帝 (東晋)|安帝]]を連れて西に逃亡し、[[建康 (都城)|建康]]に武陵王[[司馬遵]]の承制による政権が発足すると、無忌は輔国将軍・[[琅邪郡|琅邪国]]内史となり、会稽王[[司馬道子]]の部下であった精兵を配属され、[[劉道規]]らとともに劉毅の指揮に従い、桓玄を追撃した。桓玄の部下の何澹之・郭銓・郭昶之らが湓口を守っていたが、無忌らが桑落洲に進軍すると、戦いを仕掛けてきた。何澹之はいつも乗艦に派手な旌旗を立てていたが、それがなかったため、何澹之が不在であることが分かった。しかし何澹之がいなくとも、その乗艦を奪うことには意味があると無忌が主張したため、劉道規は無忌の案に従い、何澹之の乗艦を奪取した。このことをもって、何澹之を捕らえたと喧伝すると、何澹之の兵は動揺した。劉道規は勢いに乗って進軍し、無忌もまた騒がしく兵を進めると、何澹之の軍は潰滅した。無忌らは尋陽に入り、宗廟の主祏や武康公主と琅邪王妃を収容して建康に送り返した。また劉毅や劉道規とともに桓玄を崢嶸洲で撃破した。無忌は巴陵に進軍した。桓玄の従兄の[[桓謙]]と甥の[[桓振]]の間隙に乗じて[[荊州区|江陵]]を奪回した。無忌と劉道規は馬頭の桓謙を攻め、龍泉の[[桓蔚]]を攻撃し、ともに撃破した。しかし桓振に敗れて江陵を再び落とされたため、無忌らは退いて尋陽を守った。無忌は劉毅や劉道規らとともに桓振を攻撃し、夏口の三城を攻め落とし、巴陵を平定した。 |
||
義熙元年([[405年]])、馬頭に進軍した。桓謙が[[荊州]]と[[江州 (江西省)|江州]]の返還を申し出て、安帝を送り返してきたが、無忌は許さず、軍を進めて江陵を攻め落とし、桓謙らを敗走させた。無忌は安帝を護衛して建康に帰らせた。都督[[豫州|豫]][[揚州 (古代)|揚州]]淮南廬江安豊歴陽堂邑五郡諸軍事・[[右将軍]]・豫州[[刺史]]に任じられ、節を加えられたが、赴任しなかった。[[会稽郡|会稽国]]内史・都督江東五郡諸軍事に転じた。義熙2年([[406年]])、都督江荊二州江夏隨義陽綏安豫州西陽新蔡汝南潁川八郡諸軍事・江州刺史に転じた。安帝復位の功績により、安成郡開国公に封じられた。都督[[司州]]之弘農揚州之松滋二郡諸軍事を加えられ、散騎侍郎を兼ねた。義熙5年([[409年]])、鎮南将軍の号に進んだ。 |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
子の何邕が後を嗣いだ。 |
子の何邕が後を嗣いだ。 |
2021年7月21日 (水) 05:00時点における版
何 無忌(か むき、生年不詳 - 義熙6年3月20日(410年5月9日))は、中国の東晋の軍人。本貫は東海郡郯県。
経歴
劉牢之の姉妹の子にあたる。徐州に従事として召し出され、太学博士に転じた。劉牢之が鎮北将軍として、京口に駐屯すると、無忌は大事があるたびに、議論に参加した。隆安4年(400年)、司馬元顕の子の司馬彦璋が東海王に封じられると、無忌はその下で東海国中尉となり、広武将軍の号を加えられた。元興元年(402年)、桓玄のために司馬彦璋が市で殺害されると、無忌は市に入って司馬彦璋のために慟哭した。劉牢之が桓玄に降伏しようとすると、無忌は強く諫めたが、劉牢之は聞き入れなかった。元興2年(403年)、桓玄が帝を称すると、無忌は桓玄の吏部郎の曹靖之と交友があったことから、曹靖之を通して任官を求めたが、桓玄は認可しなかった。無忌はやむなく京口に帰った。
無忌は劉牢之の参軍であった劉裕と仲が良く、ともに桓玄打倒の策を相談するようになった。この計画に劉毅が加わった。元興3年(404年)、無忌は劉裕や劉毅らとともに起兵し、京口を占拠した。無忌は勅使と偽ったため、城中に反抗する者を出さなかった。
桓玄が安帝を連れて西に逃亡し、建康に武陵王司馬遵の承制による政権が発足すると、無忌は輔国将軍・琅邪国内史となり、会稽王司馬道子の部下であった精兵を配属され、劉道規らとともに劉毅の指揮に従い、桓玄を追撃した。桓玄の部下の何澹之・郭銓・郭昶之らが湓口を守っていたが、無忌らが桑落洲に進軍すると、戦いを仕掛けてきた。何澹之はいつも乗艦に派手な旌旗を立てていたが、それがなかったため、何澹之が不在であることが分かった。しかし何澹之がいなくとも、その乗艦を奪うことには意味があると無忌が主張したため、劉道規は無忌の案に従い、何澹之の乗艦を奪取した。このことをもって、何澹之を捕らえたと喧伝すると、何澹之の兵は動揺した。劉道規は勢いに乗って進軍し、無忌もまた騒がしく兵を進めると、何澹之の軍は潰滅した。無忌らは尋陽に入り、宗廟の主祏や武康公主と琅邪王妃を収容して建康に送り返した。また劉毅や劉道規とともに桓玄を崢嶸洲で撃破した。無忌は巴陵に進軍した。桓玄の従兄の桓謙と甥の桓振の間隙に乗じて江陵を奪回した。無忌と劉道規は馬頭の桓謙を攻め、龍泉の桓蔚を攻撃し、ともに撃破した。しかし桓振に敗れて江陵を再び落とされたため、無忌らは退いて尋陽を守った。無忌は劉毅や劉道規らとともに桓振を攻撃し、夏口の三城を攻め落とし、巴陵を平定した。
義熙元年(405年)、馬頭に進軍した。桓謙が荊州と江州の返還を申し出て、安帝を送り返してきたが、無忌は許さず、軍を進めて江陵を攻め落とし、桓謙らを敗走させた。無忌は安帝を護衛して建康に帰らせた。都督豫揚州淮南廬江安豊歴陽堂邑五郡諸軍事・右将軍・豫州刺史に任じられ、節を加えられたが、赴任しなかった。会稽国内史・都督江東五郡諸軍事に転じた。義熙2年(406年)、都督江荊二州江夏隨義陽綏安豫州西陽新蔡汝南潁川八郡諸軍事・江州刺史に転じた。安帝復位の功績により、安成郡開国公に封じられた。都督司州之弘農揚州之松滋二郡諸軍事を加えられ、散騎侍郎を兼ねた。義熙5年(409年)、鎮南将軍の号に進んだ。
義熙6年(410年)、広州刺史の盧循が反乱を起こし、江州に進攻した。盧循の部将の徐道覆が戦艦で贛水を下って進軍してくると、無忌は水軍を発して迎え撃とうとした。長史の鄧潜之が決戦を諫めて、守城策を取るよう進言したが、無忌は聞き入れなかった。無忌の乗った小艦は、急な西風に煽られて東岸に打ち寄せられ、そこに反乱軍の大艦が迫ったため、大敗した。無忌は節を握ったまま死んだ。死後、侍中・司空の位を追贈された。諡は忠粛といった。
子の何邕が後を嗣いだ。
伝記資料
- 『晋書』巻85 列伝第55