「洪川韓国兵士脳腫瘍死亡事件」の版間の差分
m そらみみ がページ「洪川 韓国兵士 脳腫瘍死亡事件」を「洪川韓国兵士脳腫瘍死亡事件」に移動しました: 賛成意見のみで、提案通りに移動 |
編集の要約なし タグ: 手動差し戻し ビジュアルエディター |
||
1行目: | 1行目: | ||
{{改名提案|洪川韓国兵士脳腫瘍死亡事件|date=2021年6月}} |
|||
'''洪川韓国兵士脳腫瘍死亡事件'''(ホンチョンかんこくへいしのうしゅようしぼうじけん)とは、[[2013年]][[6月17日]]に[[大韓民国]][[江原道 (南)|江原道]][[洪川郡]]にて、兵役中のA兵士(22)が激しい頭痛を訴えていたのにも関わらず、軍が適切な治療を行わず、脳腫瘍の発見が遅れ、症状が悪化して死亡した事件。同年代に発生した[[漣川後任兵暴行致死事件|漣川 一等兵いじめ殺人事件]]や[[江原道高城郡兵長銃乱射事件]]と共に、[[2010年代]]前半の兵役中の兵士による事件によって、兵役や軍隊の在り方が再考されていくことになった。 |
'''洪川韓国兵士脳腫瘍死亡事件'''(ホンチョンかんこくへいしのうしゅようしぼうじけん)とは、[[2013年]][[6月17日]]に[[大韓民国]][[江原道 (南)|江原道]][[洪川郡]]にて、兵役中のA兵士(22)が激しい頭痛を訴えていたのにも関わらず、軍が適切な治療を行わず、脳腫瘍の発見が遅れ、症状が悪化して死亡した事件。同年代に発生した[[漣川後任兵暴行致死事件|漣川 一等兵いじめ殺人事件]]や[[江原道高城郡兵長銃乱射事件]]と共に、[[2010年代]]前半の兵役中の兵士による事件によって、兵役や軍隊の在り方が再考されていくことになった。 |
||
2021年7月8日 (木) 12:30時点における版
洪川韓国兵士脳腫瘍死亡事件(ホンチョンかんこくへいしのうしゅようしぼうじけん)とは、2013年6月17日に大韓民国江原道洪川郡にて、兵役中のA兵士(22)が激しい頭痛を訴えていたのにも関わらず、軍が適切な治療を行わず、脳腫瘍の発見が遅れ、症状が悪化して死亡した事件。同年代に発生した漣川 一等兵いじめ殺人事件や江原道高城郡兵長銃乱射事件と共に、2010年代前半の兵役中の兵士による事件によって、兵役や軍隊の在り方が再考されていくことになった。
経緯
2012年1月、A兵士(22)は兵役で軍隊に入隊[1]。その後、江原道洪川の部隊に配属された[1]。
深刻な頭痛を訴えていたが、軍の誤診により、軍医は頭痛薬などを処方していた[1][2]。その間に病状は悪化していき、頭痛が悪化していたため、A兵士が病院に行く旨を中隊長に伝えた所、中隊長に悪口を言われたという[1]。A兵士は食事を摂れず、水を飲んでも吐いてしまう状態になっていた[1]。病状の深刻さを把握した軍関係者は、A兵士に診察のための2週間休暇を与えた[1][2]。2013年1月25日、A兵士は民間病院で診察を受け、脳腫瘍の診断を受けた[1][2]。A兵士はソウルの大病院で脳腫瘍除去手術を受け、国軍首都病院と一般病院を行き来しながら化学療法を受けたが[1][2]、軍から医療費が支給されず、家族が医療費を払っていた[1]。5月中旬から病状が急激に悪化し、仁川の病院の集中治療室で闘病していたが、肺炎を患い、意識不明の昏睡状態となり、6月17日午前5時30分頃に死亡[1][2]。後に脳腫瘍の発見が遅れたことが判明し[1][2]、同年2月に軍は世間から激しい批判を受けた[2]。
A兵士には両親と姉がおり、A兵士が5歳の時に父は交通事故で障害を患い、家計が傾いた[1]。そのため母は工場員や電話相談員などの仕事をし、家計を支えており、A兵士は母を助けるために肉体労働などの仕事を行なっていた[1]。
2016年1月16日、2011年に論山訓練所にて髄膜炎で死亡したB訓練兵の母主導の下、ソウル特別市西大門区峴底洞に「軍被害治癒センター」が設立された[3]。開所式にはA兵士の母と姉、B訓練兵の母、漣川 一等兵いじめ殺人事件の被害者 C一等兵の母、2015年4月の軍内性的暴行事件の被害者で当時治療中のD兵士とその父が参加した[3]。