「笑福亭光鶴」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
43行目: 43行目:


[[1915年]]、[[1916年]]ころに初め[[新桂派]]の桂三路(後の[[三遊亭圓若#2代目|2代目三遊亭圓若]])の門下で三笑と名乗る。[[浪花落語反対派|反対派]]、[[三友派]]等に移った後、[[1921年]]に[[笑福亭松鶴#4代目|4代目笑福亭松鶴]]の門下に移り、3代目光鶴を襲名。三友派では若手連「[[落語研究会 (落語会)|民衆落語研究会]]」に参加。[[吉本興業|吉本]]と互壊してからは兄弟子の[[笑福亭松鶴 (5代目)|5代目松鶴]]らと共に[[1926年]]に「花月ピクニック」なる噺家グループを組織し、若手として活躍。晩年は[[漫才]]が主流になり不遇の時代が続いた。[[大正]]時代には[[SPレコード]]も吹き込んでいる。得意ネタは「せむし茶屋」「[[くっしゃみ講釈]]」が得意だった。
[[1915年]]、[[1916年]]ころに初め[[新桂派]]の桂三路(後の[[三遊亭圓若#2代目|2代目三遊亭圓若]])の門下で三笑と名乗る。[[浪花落語反対派|反対派]]、[[三友派]]等に移った後、[[1921年]]に[[笑福亭松鶴#4代目|4代目笑福亭松鶴]]の門下に移り、3代目光鶴を襲名。三友派では若手連「[[落語研究会 (落語会)|民衆落語研究会]]」に参加。[[吉本興業|吉本]]と互壊してからは兄弟子の[[笑福亭松鶴 (5代目)|5代目松鶴]]らと共に[[1926年]]に「花月ピクニック」なる噺家グループを組織し、若手として活躍。晩年は[[漫才]]が主流になり不遇の時代が続いた。[[大正]]時代には[[SPレコード]]も吹き込んでいる。得意ネタは「せむし茶屋」「[[くっしゃみ講釈]]」が得意だった。

== 4代目 ==
'''4代目 笑福亭光鶴'''([[1918年]][[8月17日]] - [[1986年]][[9月5日]])は、後の[[笑福亭松鶴 (6代目)|6代目笑福亭松鶴]]。5代目松鶴の実子。本名: 竹内日出男。享年69。


== 出典 ==
== 出典 ==

2020年5月23日 (土) 03:14時点における版

五枚笹は、笑福亭一門の定紋である。

笑福亭 光鶴(しょうふくてい こかく)は、上方落語名跡5代目笑福亭松鶴の前名であったため、以降は笑福亭の出世名となる。5代目笑福亭枝鶴の廃業後は、空き名跡となっている。

初代

初代 笑福亭光鶴1869年 - ?)は、後の笑福亭梅香(檀辻光蔵)。享年不詳。

2代目

2代目 笑福亭光鶴1884年9月5日 - 1950年7月22日)は、後の5代目笑福亭松鶴。本名: 竹内梅之助。享年65。

3代目

3代目 笑福亭しょうふくてい 光鶴こかく
本名 池田 熊吉
生年月日 不詳年
没年月日 1936年1月17日
出身地 日本の旗 日本
師匠 桂三路(後の2代目三遊亭圓若
4代目笑福亭松鶴
名跡 三笑
3代目笑福亭光鶴
活動期間 1915年 - 1936年?
活動内容 上方落語
所属 新桂派
反対派
三友派
吉本

3代目 笑福亭光鶴(? - 1936年1月17日)は、本名: 池田熊吉。享年不詳。

1915年1916年ころに初め新桂派の桂三路(後の2代目三遊亭圓若)の門下で三笑と名乗る。反対派三友派等に移った後、1921年4代目笑福亭松鶴の門下に移り、3代目光鶴を襲名。三友派では若手連「民衆落語研究会」に参加。吉本と互壊してからは兄弟子の5代目松鶴らと共に1926年に「花月ピクニック」なる噺家グループを組織し、若手として活躍。晩年は漫才が主流になり不遇の時代が続いた。大正時代にはSPレコードも吹き込んでいる。得意ネタは「せむし茶屋」「くっしゃみ講釈」が得意だった。

出典

  • 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
  • 『古今東西噺家紳士録』