「笑福亭光鶴」の版間の差分
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[[1915年]]、[[1916年]]ころに初め[[新桂派]]の桂三路(後の[[三遊亭圓若#2代目|2代目三遊亭圓若]])の門下で三笑と名乗る。[[浪花落語反対派|反対派]]、[[三友派]]等に移った後、[[1921年]]に[[笑福亭松鶴#4代目|4代目笑福亭松鶴]]の門下に移り、3代目光鶴を襲名。三友派では若手連「[[落語研究会 (落語会)|民衆落語研究会]]」に参加。[[吉本興業|吉本]]と互壊してからは兄弟子の[[笑福亭松鶴 (5代目)|5代目松鶴]]らと共に[[1926年]]に「花月ピクニック」なる噺家グループを組織し、若手として活躍。晩年は[[漫才]]が主流になり不遇の時代が続いた。[[大正]]時代には[[SPレコード]]も吹き込んでいる。得意ネタは「せむし茶屋」「[[くっしゃみ講釈]]」が得意だった。 |
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== 4代目 == |
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'''4代目 笑福亭光鶴'''([[1918年]][[8月17日]] - [[1986年]][[9月5日]])は、後の[[笑福亭松鶴 (6代目)|6代目笑福亭松鶴]]。5代目松鶴の実子。本名: 竹内日出男。享年69。 |
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== 出典 == |
== 出典 == |
2020年5月23日 (土) 03:14時点における版
笑福亭 光鶴(しょうふくてい こかく)は、上方落語の名跡。5代目笑福亭松鶴の前名であったため、以降は笑福亭の出世名となる。5代目笑福亭枝鶴の廃業後は、空き名跡となっている。
初代
初代 笑福亭光鶴(1869年 - ?)は、後の笑福亭梅香(檀辻光蔵)。享年不詳。
2代目
2代目 笑福亭光鶴(1884年9月5日 - 1950年7月22日)は、後の5代目笑福亭松鶴。本名: 竹内梅之助。享年65。
3代目
3代目 | |
本名 | 池田 熊吉 |
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生年月日 | 不詳年 |
没年月日 | 1936年1月17日 |
出身地 | 日本 |
師匠 | 桂三路(後の2代目三遊亭圓若) 4代目笑福亭松鶴 |
名跡 | 三笑 3代目笑福亭光鶴 |
活動期間 | 1915年 - 1936年? |
活動内容 | 上方落語 |
所属 | 新桂派 反対派 三友派 吉本 他 |
3代目 笑福亭光鶴(? - 1936年1月17日)は、本名: 池田熊吉。享年不詳。
1915年、1916年ころに初め新桂派の桂三路(後の2代目三遊亭圓若)の門下で三笑と名乗る。反対派、三友派等に移った後、1921年に4代目笑福亭松鶴の門下に移り、3代目光鶴を襲名。三友派では若手連「民衆落語研究会」に参加。吉本と互壊してからは兄弟子の5代目松鶴らと共に1926年に「花月ピクニック」なる噺家グループを組織し、若手として活躍。晩年は漫才が主流になり不遇の時代が続いた。大正時代にはSPレコードも吹き込んでいる。得意ネタは「せむし茶屋」「くっしゃみ講釈」が得意だった。
出典
- 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
- 『古今東西噺家紳士録』