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[[1881年]]([[明治]]13年)頃に独立し、[[横浜]]の弁天通に写真スタジオ「金幣写真」を開設、まもなく日の出町にも支店を出した。独立直後は「写真商」と称していたが、数年後には「写真家」と改めている。本店は[[1890年]](明治22年)頃に本町通1丁目7番に移動した。さらに芝や[[銀座]]にも支店を開設した。[[1885年]](明治17年)頃、ベアトとシュティルフィールト、および[[内田九一]]が撮影したネガを引き継いだ。彼らの写真のうち、外国人の土産用の写真は「横浜写真」と呼ばれ、金兵衛自身もセミヌード写真を売り、中には顔をコラージュしているものもある<ref>{{Cite book|和書|author=[[石黒敬章]]|title=こんな写真があったのか : 幕末明治の歴史風俗写真館|date=2014-3|publisher=KADOKAWA|isbn=9784046532978|page= }}{{要ページ番号|date=2016-11}}</ref>。また、長崎の[[上野彦馬]]のネガもいくらか引き継いでいる。[[1904年]](明治36年)の[[セントルイス万国博覧会]]に作品を出展、[[1906年]](明治38年)に本店が火災で焼失したが、直後に再建した。
[[1881年]]([[明治]]13年)頃に独立し、[[横浜]]の弁天通に写真スタジオ「金幣写真」を開設、まもなく日の出町にも支店を出した。独立直後は「写真商」と称していたが、数年後には「写真家」と改めている。本店は[[1890年]](明治22年)頃に本町通1丁目7番に移動した。さらに芝や[[銀座]]にも支店を開設した。[[1885年]](明治17年)頃、ベアトとシュティルフィールト、および[[内田九一]]が撮影したネガを引き継いだ。彼らの写真のうち、外国人の土産用の写真は「横浜写真」と呼ばれ、金兵衛自身もセミヌード写真を売り、中には顔をコラージュしているものもある<ref>{{Cite book|和書|author=[[石黒敬章]]|title=こんな写真があったのか : 幕末明治の歴史風俗写真館|date=2014-3|publisher=KADOKAWA|isbn=9784046532978|page= }}{{要ページ番号|date=2016-11}}</ref>。また、長崎の[[上野彦馬]]のネガもいくらか引き継いでいる。[[1904年]](明治36年)の[[セントルイス万国博覧会]]に作品を出展、[[1906年]](明治38年)に本店が火災で焼失したが、直後に再建した。


彼のアルバムのほとんどは、アコーディオン方式で作成されており、螺鈿細工や蒔絵を表紙に施した豪華なもので、現在では「金幣アルバム」などとも称される。
彼のアルバムのほとんどは、アコーディオン方式で作成されており、[[螺鈿]]細工や[[蒔絵]]を表紙に施した豪華なもので、現在では「金幣アルバム」などとも称される。


[[1912年]]([[大正]]元年)に写真の世界から引退、金幣写真館もその2年後に営業を停止した。晩年は日本画を描いて余生を送り、[[1932年]]([[昭和]]7年)[[4月19日]]、92歳で神戸市内にある孫の家で死亡。その後、遺体は横浜市にある[[久保山霊堂]]に埋葬された。
[[1912年]]([[大正]]元年)に写真の世界から引退、金幣写真館もその2年後に営業を停止した。晩年は日本画を描いて余生を送り、[[1932年]]([[昭和]]7年)[[4月19日]]、92歳で神戸市内にある孫の家で死亡。その後、遺体は横浜市にある[[久保山霊堂]]に埋葬された。

2018年10月27日 (土) 04:28時点における版

日下部金兵衛
国籍 日本の旗 日本
出身地 甲斐国甲府
生年月日 1841年11月24日または
同年11月27日
没年月日 1932年4月19日または
1934年4月19日
師匠 フェリーチェ・ベアト
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日下部 金兵衛(くさかべ きんべえ、天保12年10月12日[1] / 同年10月15日[2]1841年11月24日 / 同年11月27日) - 昭和7年4月19日1932年4月19日[3])/ 昭和9年4月19日(1934年4月19日[2]))は日本の写真家。顧客に外国人が多かったため、仕事上では名字の日下部よりも、発音しやすい名前の金兵衛を用いることが多かった。甲斐国山梨県)出身。

経歴

甲斐国の甲府町(現・山梨県甲府市)に生まれる[1]1863年文久3年)頃から、横浜のフェリーチェ・ベアトのスタジオで写真の着色技師として働き始めた。1867年慶応3年)にはベアトの弟子として上海に撮影に出かけている。ベアトが写真の世界から引退すると、ベアトの弟子でもあったライムント・フォン・シュティルフリートの下で働いた。

1881年明治13年)頃に独立し、横浜の弁天通に写真スタジオ「金幣写真」を開設、まもなく日の出町にも支店を出した。独立直後は「写真商」と称していたが、数年後には「写真家」と改めている。本店は1890年(明治22年)頃に本町通1丁目7番に移動した。さらに芝や銀座にも支店を開設した。1885年(明治17年)頃、ベアトとシュティルフィールト、および内田九一が撮影したネガを引き継いだ。彼らの写真のうち、外国人の土産用の写真は「横浜写真」と呼ばれ、金兵衛自身もセミヌード写真を売り、中には顔をコラージュしているものもある[4]。また、長崎の上野彦馬のネガもいくらか引き継いでいる。1904年(明治36年)のセントルイス万国博覧会に作品を出展、1906年(明治38年)に本店が火災で焼失したが、直後に再建した。

彼のアルバムのほとんどは、アコーディオン方式で作成されており、螺鈿細工や蒔絵を表紙に施した豪華なもので、現在では「金幣アルバム」などとも称される。

1912年大正元年)に写真の世界から引退、金幣写真館もその2年後に営業を停止した。晩年は日本画を描いて余生を送り、1932年昭和7年)4月19日、92歳で神戸市内にある孫の家で死亡。その後、遺体は横浜市にある久保山霊堂に埋葬された。

伝記

  • 中村啓信著「明治時代カラー写真の巨人 日下部金兵衛」国書刊行会(2006年)。ISBN: 978-4336047724

ギャラリー

脚注

  1. ^ a b 中村(2006年)170頁
  2. ^ a b “日下部 金兵衛 クサカベ キンベエ”, 日外アソシエーツ株式会社, (2004), 全国書誌番号:20737062, https://archive.is/SIS5H#26% 
  3. ^ 中村(2006年)173頁
  4. ^ 石黒敬章『こんな写真があったのか : 幕末明治の歴史風俗写真館』KADOKAWA、2014年3月。ISBN 9784046532978 [要ページ番号]

参考文献

外部リンク