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'''藤堂 高敏'''('''とうどう たかとし'''、[[元禄]]6年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]([[1693年]][[3月10日]]) - [[享保]]13年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]([[1728年]][[5月21日]]))は、[[伊勢国]][[津藩]]の第5代藩主。父は[[久居藩]]の初代藩主・[[藤堂高通]](高敏は三男)。母は[[福本休悦]]の娘・智鏡院。正室は[[中川久通]]の娘。官位は従四位下。[[和泉国|和泉]]守。
'''藤堂 高敏'''('''とうどう たかとし'''、[[元禄]]6年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]([[1693年]][[3月10日]]) - [[享保]]13年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]([[1728年]][[5月21日]]))は、[[伊勢国]][[津藩]]の第5代藩主。父は[[久居藩]]の初代藩主・[[藤堂高通]](高敏は三男)。母は[[福本休悦]]の娘・智鏡院。正室は[[中川久通]]の娘。官位は従四位下。[[和泉国|和泉]]守。


1693年2月4日生まれ。三男であったが、二人の兄がいずれも早世したため、嫡男となる。[[1697年]]に父が死去したとき、まだ5歳の幼少だったことから久居藩の家督は叔父の[[藤堂高堅]]が継ぎ、高敏は成長してから久居藩主ということとなった。ところが本家の津藩において[[藤堂高睦]]の二男が全て早世したため、[[1705年]]に高睦の養嗣子となる。[[1708年]]、高睦の死去により後を継いで藩主となった。しかし藩政においては凶作が相次いで財政が悪化し、正月の餅つきを中止するというほどであった。
1693年2月4日生まれ。三男であったが、二人の兄がいずれも早世したため、嫡男となる。[[1697年]]に父が死去したとき、まだ5歳の幼少だったことから久居藩の家督は叔父の[[藤堂高堅]]が継ぎ、高敏は成長してから久居藩主ということとなった。ところが本家の津藩において[[藤堂高睦]]の二男が全て早世したため、[[1705年]]に高睦の養嗣子となる。[[1708年]]、高睦の死去により後を継いで藩主となった。しかし藩政においては凶作が相次いで財政が悪化し、正月の餅つきを中止するほどであった。


1728年、疱瘡が原因で倒れる。将軍・[[徳川吉宗]]から薬を下賜されたが一向に良くならず、4月13日に[[津城]]にて死去した。死後、家督は養嗣子の[[藤堂高治]]が継いだ。法号:大輪院殿智月高映権大僧都。
1728年、疱瘡が原因で倒れる。将軍・[[徳川吉宗]]から薬を下賜されたが一向に良くならず、4月13日に[[津城]]にて死去した。死後、家督は養嗣子の[[藤堂高治]]が継いだ。高治は初代藩主・[[藤堂高虎]]の弟の子孫であり、わずか5代で初代藩主・高虎の男系血統は絶えることとなる。法号:大輪院殿智月高映権大僧都。


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2006年7月20日 (木) 13:59時点における版

藤堂 高敏とうどう たかとし元禄6年2月4日1693年3月10日) - 享保13年4月13日1728年5月21日))は、伊勢国津藩の第5代藩主。父は久居藩の初代藩主・藤堂高通(高敏は三男)。母は福本休悦の娘・智鏡院。正室は中川久通の娘。官位は従四位下。和泉守。

1693年2月4日生まれ。三男であったが、二人の兄がいずれも早世したため、嫡男となる。1697年に父が死去したとき、まだ5歳の幼少だったことから久居藩の家督は叔父の藤堂高堅が継ぎ、高敏は成長してから久居藩主ということとなった。ところが本家の津藩において藤堂高睦の二男が全て早世したため、1705年に高睦の養嗣子となる。1708年、高睦の死去により後を継いで藩主となった。しかし藩政においては凶作が相次いで財政が悪化し、正月の餅つきを中止するほどであった。

1728年、疱瘡が原因で倒れる。将軍・徳川吉宗から薬を下賜されたが一向に良くならず、4月13日に津城にて死去した。死後、家督は養嗣子の藤堂高治が継いだ。高治は初代藩主・藤堂高虎の弟の子孫であり、わずか5代で初代藩主・高虎の男系血統は絶えることとなる。法号:大輪院殿智月高映権大僧都。

先代
藤堂高睦
藤堂氏(津藩5代)当主
1708~1728
次代
藤堂高治