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== 生涯 ==
== 生涯 ==
プラキディアは、テオドシウスの将でヴァンダル人の[[スティリコ]]とその妻セレナのもとで育った。スティリコは[[西ローマ帝国]]で事実上の軍のトップとなっており、彼自身によれば[[東ローマ帝国]]でもそうであった。408年、スティリコはホノリウス帝に処刑されたが、プラキディアの同意があったか、少なくとも異論なしだったとされる。スティリコの死により、非[[イタリア人]]のローマの将兵が[[西ゴート王国|西ゴート]]の[[アラリック1世]]の陣営に移り、アラリックの軍はすぐさま[[イタリア]]を[[侵略]]した。
プラキディアは、テオドシウス1世の将で[[ヴァンダル人]]の[[スティリコ]]とその妻セレナのもとで育った。スティリコは[[西ローマ帝国]]で事実上の軍のトップとなっており、彼自身によれば[[東ローマ帝国]]でもそうであった。408年、スティリコはホノリウス帝に処刑されたが、プラキディアの同意があったか、少なくとも異論なしだったとされる。スティリコの死により、非[[イタリア人]]のローマの将兵が[[西ゴート王国|西ゴート]]の[[アラリック1世]]の陣営に移り、アラリックの軍はすぐさま[[イタリア]]を[[侵略]]した。


409年か410年、アラリックによるローマ攻囲の間に、プラキディアは西ゴートの捕虜となった。西ゴート軍による[[ローマ略奪 (410年)|ローマ略奪]]の間(410年8月24日からの3日間)もプラキディアは連行され、イタリア中をさまよったが、アラリックが死ぬと[[ガリア]]に移された。
409年か410年、アラリックによるローマ攻囲の間に、プラキディアは西ゴートの捕虜となった。西ゴート軍による[[ローマ略奪 (410年)|ローマ略奪]]の間(410年8月24日からの3日間)もプラキディアは連行され、イタリア中をさまよったが、アラリックが死ぬと[[ガリア]]に移された。
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414年1月、プラキディアはアラリックの弟で、その死後に西ゴートの王となった[[アタウルフ]]と[[ナルボンヌ]]で結婚した。歴史家の[[ヨルダネス]]は、二人は411年に[[フォルリ]]で結婚したとしている。ヨルダヌスによる日付は、彼女とアタウルフが事実上の結婚を済ませたときであると思われる。プラキディアが生んだ息子はテオドシウスと名付けられたが、幼児のうちに死に[[バルセロナ]]に埋葬された。のちにその遺体はローマの[[サン・ピエトロ大聖堂]]にある皇帝の霊廟に移された。アタウルフは自分が殺害したゴート人の[[首領]]の部下に襲われて重傷を負い、415年の夏、いまわの際にプラキディアをローマ人のもとへ返すよう命じた。416年、ゴート王[[ワリア]]はローマ人と条約を結んで支持を得る見返りに、彼女を返還した。
414年1月、プラキディアはアラリックの弟で、その死後に西ゴートの王となった[[アタウルフ]]と[[ナルボンヌ]]で結婚した。歴史家の[[ヨルダネス]]は、二人は411年に[[フォルリ]]で結婚したとしている。ヨルダヌスによる日付は、彼女とアタウルフが事実上の結婚を済ませたときであると思われる。プラキディアが生んだ息子はテオドシウスと名付けられたが、幼児のうちに死に[[バルセロナ]]に埋葬された。のちにその遺体はローマの[[サン・ピエトロ大聖堂]]にある皇帝の霊廟に移された。アタウルフは自分が殺害したゴート人の[[首領]]の部下に襲われて重傷を負い、415年の夏、いまわの際にプラキディアをローマ人のもとへ返すよう命じた。416年、ゴート王[[ワリア]]はローマ人と条約を結んで支持を得る見返りに、彼女を返還した。


417年1月、兄ホノリウスに強制され、プラキディアは[[将軍]]コンスタンティウス([[コンスタンティウス3世]])と結婚した。2人の間には[[ウァレンティニアヌス3世]]となる息子と、娘[[ユスタ・グラタ・ホノリア]]が生まれた。421年、コンスタンティウスは短期間皇帝となるが、すぐに死去した。今度は兄ホノリウス自身が求婚したが、彼女子供達を連れて[[コンスタンティノポリ]]に逃れた。ホノリウが423年に死ぬと、{{仮リンク|ヨハ|en|Joannes}}が皇帝名乗り、[[フラウィウ・アエティウス]]と同盟を組む鎮圧され、425年、プラキディアの息子がァレンティニ3世して帝位に就いた。
417年1月、兄ホノリウスに強制され、プラキディアは[[将軍]]コンスタンティウス([[コンスタンティウス3世]])と結婚した。2人の間には[[ウァレンティニアヌス3世]]となる息子と、娘[[ユスタ・グラタ・ホノリア]]が生まれた。421年、コンスタンティウスはホノリウスによって共同皇帝に任命されたが、東ローマ帝国はコンスタンティの皇帝称号を僭称として認めなかった。激怒したコンティウは軍団組織して[[コンタンティノープル]]へ攻め込もうしたが、遠征の準備が整う前に死亡した。そのためプラキディアは西側では[[アグスタ]]とされ、東側ではウグタの僭称者された。


コンスタンティウスが死ぬと、今度は兄ホノリウス自身が求婚したが、彼女は子供達を連れて[[コンスタンティノポリス]]に逃れた。423年にホノリウスが死ぬと、西ローマ帝国では{{仮リンク|ヨハンネス|en|Joannes}}が皇帝に即位した。しかし東ローマ帝国の[[テオドシウス2世]]が、ゲルマン人の将軍アスパルに命じて西ローマ帝国を襲撃させ、皇帝ヨハンネスや西ローマ帝国の主だった高官らは425年7月までに概ね殺害された。テオドシウス2世は同年10月23日にプラキディアの幼い息子[[ウァレンティニアヌス3世]]を自身の傀儡として西方正帝の座に据えた。
彼女は、最初は息子の名の下に統治を行おうとしたが、彼女に忠誠を誓う将軍が死んだりアエティウスになびいたりするにつれ、帝国の政治はの手に落ち、アエティウスは貴族となった。プラキディアは見かけはアエティウスと友好関係を保った。アエティウスはのちに西ローマ帝国を[[アッティラ]]率いる[[フン族]]から防衛する中心となる。アッティラは狙いをコンスタンティノポリスからイタリアに向けたが、それはプラキディアの娘ホノリアからの愚かな手紙のためであった。450年の春、ホノリアはアッティラに、プラキディアを含む皇族が元老院議員との結婚を強制するので、自分を救い出してほしいと送ったのである。プラキディアの最後の行動は、息子のウァレンティニアヌス3世に、ホノリアを殺すよりも追放するよう説得したことである。450年11月にプラキディアは死去し、451年から453年のアッティラによるイタリア略奪を見ることはなかった。アッティラはホノリアの手紙を「合法的な」要請としたが、略奪はゴート人によるものよりも残虐なものであった。

彼女は、最初は息子の名の下に統治を行おうとしたが、即位の経緯からプラキディアとウァレンティニアヌス3世は西ローマ帝国の人々から憎悪の対象とされた。彼女に忠誠を誓う将軍が死んだり蛮族出身の[[フラウィウス・アエティウス]]になびいたりするにつれ、帝国の政治はアエティウスの手に落ち、アエティウスは[[パトリキ|ローマ貴族]]なり後には[[執政官]]ともなった。プラキディアは見かけはアエティウスと友好関係を保った。アエティウスはのちに西ローマ帝国を[[アッティラ]]率いる[[フン族]]から防衛する中心となる。アッティラは狙いをコンスタンティノポリスからイタリアに向けたが、それはプラキディアの娘[[ユスタ・グラタ・ホノリア|ホノリア]]からの愚かな手紙のためであった。450年の春、ホノリアはアッティラに、プラキディアを含む皇族が元老院議員との結婚を強制するので、自分を救い出してほしいと手紙と指輪を送ったのである。プラキディアの最後の行動は、息子のウァレンティニアヌス3世に、ホノリアを殺すよりも追放するよう説得したことである。450年11月にプラキディアは死去し、451年から453年のアッティラによるイタリア略奪を見ることはなかった。アッティラはホノリアの手紙を「合法的な」要請としたが、略奪はゴート人によるものよりも残虐なものであった。プラキディアが死ぬと西ローマ帝国の人々の憎悪はウァレンティニアヌス3世へと集中した。後にウァレンティニアヌス3世が教会前の広場で暗殺されたとき、その場に居合わせた西ローマ帝国の人々のなかに皇帝を助けようとする者は誰もいなかった。


プラキディアは一生を通じて敬虔な[[カトリック教会|カトリック]][[教徒]]で、後年には[[ラヴェンナ]]でいくつかの[[教会]]に寄進を行った。ラヴェンナの[[ガッラ・プラキディア廟堂]]は、1996年に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]によって[[世界遺産]]に登録されている。
プラキディアは一生を通じて敬虔な[[カトリック教会|カトリック]][[教徒]]で、後年には[[ラヴェンナ]]でいくつかの[[教会]]に寄進を行った。ラヴェンナの[[ガッラ・プラキディア廟堂]]は、1996年に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]によって[[世界遺産]]に登録されている。

2017年12月30日 (土) 02:43時点における版

ガッラ・プラキディア
Galla Placidia
西ゴート王妃
西ローマ皇后
ガッラ・プラキディアと2人の子供

出生 390年
死去 450年11月27日
配偶者 西ゴートアタウルフ
  ローマ皇帝コンスタンティウス3世
子女 テオドシウス
ウァレンティニアヌス3世
ユスタ・グラタ・ホノリア
父親 ローマ皇帝テオドシウス1世
母親 ガッラ
宗教 カトリック
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ラヴェンナのガッラ・プラキディア廟堂の内部

アエリア・ガッラ・プラキディアAelia Galla Placidia, 390年頃 - 450年11月27日)は、ローマ皇帝テオドシウス1世(大帝)とその後妻ガッラ(ウァレンティニアヌス1世の娘)の娘。アルカディウス帝ホノリウス帝の異母妹である。西ゴートアタウルフの妃、のち西ローマ皇帝コンスタンティウス3世の皇后。

生涯

プラキディアは、テオドシウス1世の将でヴァンダル人スティリコとその妻セレナのもとで育った。スティリコは西ローマ帝国で事実上の軍のトップとなっており、彼自身によれば東ローマ帝国でもそうであった。408年、スティリコはホノリウス帝に処刑されたが、プラキディアの同意があったか、少なくとも異論なしだったとされる。スティリコの死により、非イタリア人のローマの将兵が西ゴートアラリック1世の陣営に移り、アラリックの軍はすぐさまイタリア侵略した。

409年か410年、アラリックによるローマ攻囲の間に、プラキディアは西ゴートの捕虜となった。西ゴート軍によるローマ略奪の間(410年8月24日からの3日間)もプラキディアは連行され、イタリア中をさまよったが、アラリックが死ぬとガリアに移された。

414年1月、プラキディアはアラリックの弟で、その死後に西ゴートの王となったアタウルフナルボンヌで結婚した。歴史家のヨルダネスは、二人は411年にフォルリで結婚したとしている。ヨルダヌスによる日付は、彼女とアタウルフが事実上の結婚を済ませたときであると思われる。プラキディアが生んだ息子はテオドシウスと名付けられたが、幼児のうちに死にバルセロナに埋葬された。のちにその遺体はローマのサン・ピエトロ大聖堂にある皇帝の霊廟に移された。アタウルフは自分が殺害したゴート人の首領の部下に襲われて重傷を負い、415年の夏、いまわの際にプラキディアをローマ人のもとへ返すよう命じた。416年、ゴート王ワリアはローマ人と条約を結んで支持を得る見返りに、彼女を返還した。

417年1月、兄ホノリウスに強制され、プラキディアは将軍コンスタンティウス(コンスタンティウス3世)と結婚した。2人の間にはウァレンティニアヌス3世となる息子と、娘ユスタ・グラタ・ホノリアが生まれた。421年、夫コンスタンティウスはホノリウスによって共同皇帝に任命されたが、東ローマ帝国はコンスタンティウスの皇帝称号を僭称として認めなかった。激怒したコンスタンティウスは軍団を組織してコンスタンティノープルへ攻め込もうとしたが、遠征の準備が整う前に死亡した。そのためプラキディアは西側ではアウグスタとされ、東側ではアウグスタの僭称者とされた。

コンスタンティウスが死ぬと、今度は兄ホノリウス自身が求婚したが、彼女は子供達を連れてコンスタンティノポリスに逃れた。423年にホノリウスが死ぬと、西ローマ帝国ではヨハンネスが皇帝に即位した。しかし東ローマ帝国のテオドシウス2世が、ゲルマン人の将軍アスパルに命じて西ローマ帝国を襲撃させ、皇帝ヨハンネスや西ローマ帝国の主だった高官らは425年7月までに概ね殺害された。テオドシウス2世は同年10月23日にプラキディアの幼い息子ウァレンティニアヌス3世を自身の傀儡として西方正帝の座に据えた。

彼女は、最初は息子の名の下に統治を行おうとしたが、即位の経緯からプラキディアとウァレンティニアヌス3世は西ローマ帝国の人々から憎悪の対象とされた。彼女に忠誠を誓う将軍が死んだり蛮族出身のフラウィウス・アエティウスになびいたりするにつれ、帝国の政治はアエティウスの手に落ち、アエティウスはローマ貴族となり後には執政官ともなった。プラキディアは見かけはアエティウスと友好関係を保った。アエティウスはのちに西ローマ帝国をアッティラ率いるフン族から防衛する中心となる。アッティラは狙いをコンスタンティノポリスからイタリアに向けたが、それはプラキディアの娘ホノリアからの愚かな手紙のためであった。450年の春、ホノリアはアッティラに、プラキディアを含む皇族が元老院議員との結婚を強制するので、自分を救い出してほしいと手紙と指輪を送ったのである。プラキディアの最後の行動は、息子のウァレンティニアヌス3世に、ホノリアを殺すよりも追放するよう説得したことである。450年11月にプラキディアは死去し、451年から453年のアッティラによるイタリア略奪を見ることはなかった。アッティラはホノリアの手紙を「合法的な」要請としたが、略奪はゴート人によるものよりも残虐なものであった。プラキディアが死ぬと西ローマ帝国の人々の憎悪はウァレンティニアヌス3世へと集中した。後にウァレンティニアヌス3世が教会前の広場で暗殺されたとき、その場に居合わせた西ローマ帝国の人々のなかに皇帝を助けようとする者は誰もいなかった。

プラキディアは一生を通じて敬虔なカトリック教徒で、後年にはラヴェンナでいくつかの教会に寄進を行った。ラヴェンナのガッラ・プラキディア廟堂は、1996年にユネスコによって世界遺産に登録されている。

参考文献

関連項目