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'''元稹'''(げん しん、またはげん じん {{zh2 | t=元稹| s=元稹| hp=Yuán Zhěn| w=Yüan Chen| first=t}}、[[779年]]([[大暦]]14年) - [[831年]]([[大和 (唐)|大和]]5年))は、[[中国]]・[[唐]]代中期の[[詩人]]、[[文人]]、[[宰相]]。[[字]]は'''微之'''。郡望は河南洛陽([[河南省]][[洛陽市]])であるが、[[長安]]靖安里に生まれた。


== 略歴 ==
== 略歴 ==
彼は[[代 (五胡十六国)|代]]の王[[拓跋什翼犍]]([[北魏]]の昭成帝)の末裔であった。しかし、彼の代には零落し、幼くして父を失い母の手一つで育てられた。15歳で明経科に、28歳で[[科挙|進士]]に合格、左拾遺から河南(洛陽)の県尉さらに監察御史となったが、宦官仇士元との紛争で[[荊州区|江陵]]府の司曹参軍に左遷された。[[虢州]]の長史をしているときに召し出されて首都へ行き、中書舎人・承旨学士となり、[[穆宗 (唐)|穆宗]]の時に工部侍郎・[[同中書門下平章事|同平章事]](宰相)に進んだが、4ヶ月で罷免され、都を出て同州刺史となり、[[越州]]に転じ浙東観察使を兼ねた。[[827年]]頃に都にもどり、尚書左丞検校戸部尚書となり、[[鄂州]]刺史に武昌軍節度使を兼ね、その地で急病により没する。
彼は[[代 (五胡十六国)|代]]の王[[拓跋什翼犍]]([[北魏]]の昭成帝)の末裔であった。しかし、彼の代には零落し、幼くして父を失い母の手一つで育てられた。15歳で明経科に、28歳で[[科挙|進士]]に合格、左拾遺から河南(洛陽)の県尉さらに監察御史となったが、宦官仇士元との紛争で[[荊州区|江陵]]府の司曹参軍に左遷された。[[虢州]]の長史をしているときに召し出されて首都へ行き、中書舎人・承旨学士となり、[[穆宗 (唐)|穆宗]]の時に工部侍郎・[[同中書門下平章事|同平章事]](宰相)に進んだが、4ヶ月で罷免され、都を出て同州刺史となり、[[越州]]に転じ浙東観察使を兼ねた。[[827年]]頃に都にもどり、尚書左丞検校戸部尚書となり、[[鄂州]]刺史に武昌軍節度使を兼ね、その地で急病により没する。


出世に熱心のあまり、監察御史であったときはしばしば地方官の不正を糾弾し、大政治家の[[裴度]]と勢力争いに及ぶ。元稹はその詩文を穆宗に喜ばれ、さらに宦官の巨頭・崔潭峻と仲がよいので任官できたとも言われる。一時期不遇で文学に専心。[[楽府]]体の詩歌に社会批判を導入し、叙事詩的手法を駆使して新楽府という新生面をひらく。そのため「才子」とも称せられた。やがて[[白居易]]と「元白」と並称されるほど交流を深め、和答に次韻という形式を創造し「元和体」または「元白体」として一世を風靡した。短編小説の『鶯鶯伝』<ref>[[今村与志雄]]訳注 『唐宋伝奇集』(上)に収録([[岩波文庫]])。</ref> では曲折に富む構成と達意な筆致で、以後に流行する小説<ref>[[井波律子]]『中国文章家列伝』([[岩波新書]])第三章「元稹 中国最初の小説家」による</ref>を先導した。『元氏長慶集』60巻にほぼ全作品が収められている。
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2017年10月31日 (火) 01:14時点における版

元稹

元稹(げん しん、またはげん じん 中国語: 元稹; 拼音: Yuán Zhěn; ウェード式: Yüan Chen779年大暦14年) - 831年大和5年))は、中国代中期の詩人文人宰相微之。郡望は河南洛陽(河南省洛陽市)であるが、長安靖安里に生まれた。[1]

略歴

彼はの王拓跋什翼犍北魏の昭成帝)の末裔であった。しかし、彼の代には零落し、幼くして父を失い母の手一つで育てられた。15歳で明経科に、28歳で進士に合格、左拾遺から河南(洛陽)の県尉さらに監察御史となったが、宦官仇士元との紛争で江陵府の司曹参軍に左遷された。虢州の長史をしているときに召し出されて首都へ行き、中書舎人・承旨学士となり、穆宗の時に工部侍郎・同平章事(宰相)に進んだが、4ヶ月で罷免され、都を出て同州刺史となり、越州に転じ浙東観察使を兼ねた。827年頃に都にもどり、尚書左丞検校戸部尚書となり、鄂州刺史に武昌軍節度使を兼ね、その地で急病により没する。

出世に熱心のあまり、監察御史であったときはしばしば地方官の不正を糾弾し、大政治家の裴度と勢力争いに及ぶ。元稹はその詩文を穆宗に喜ばれ、さらに宦官の巨頭・崔潭峻と仲がよいので任官できたとも言われる。一時期不遇で文学に専心。楽府体の詩歌に社会批判を導入し、叙事詩的手法を駆使して新楽府という新生面をひらく。そのため「才子」とも称せられた。やがて白居易と「元白」と並称されるほど交流を深め、和答に次韻という形式を創造し「元和体」または「元白体」として一世を風靡した。短編小説の『鶯鶯伝』[2] では曲折に富む構成と達意な筆致で、以後に流行する小説を先導した[3]。『元氏長慶集』60巻にほぼ全作品が収められている。[4][5]

注・出典

  1. ^ 旧唐書』 卷一百六十六 列傳第一百十六。 ウィキソースのロゴ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:舊唐書/卷166
  2. ^ 今村与志雄訳注 『唐宋伝奇集』(上) 1988年 (岩波文庫ISBN 978-4003203811、p.178-200。
  3. ^ 井波律子『中国文章家列伝』 2000年 (岩波新書ISBN 978-4004306627 、第三章「元稹 中国最初の小説家」による。
  4. ^ ウィキソースのロゴ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:作者:元稹
  5. ^ ウィキソースのロゴ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:元氏長慶集 (四庫全書本)