「犬懸上杉家」の版間の差分

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2017年9月8日 (金) 09:26時点における版

犬懸上杉家(いぬがけうえすぎけ)は、室町時代関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。四条上杉家とも呼ばれる。犬懸家は一時期は上杉氏の惣領とも目された名門で、室町時代中期には関東管領となり、下総国を中心に関東全域に影響力を及ぼしたが、上杉禅秀の乱で大きく衰退した。

概要

上杉憲房の子・上杉憲藤の系統である。憲藤は、足利尊氏の子の千寿王に仕え、犬懸(鎌倉市浄明寺)に在住して犬懸家の祖となったとされる。憲藤は早くに戦死するが、その息子である朝房は関東執事(後の関東管領)に就く。しかし、若くして出家して京都で隠棲したために弟の朝宗が後を継いだ。犬懸の家号が登場するのはこの朝宗の時代(『鎌倉大日記』)であり、朝宗は長寿を保って晩年には関東管領を務めた。

朝宗の後を継いだのは、上杉氏憲(禅秀)である。氏憲は長い間父親を支え、娘を関東の有力者に嫁がせるなどして勢力拡大に務め、父親の隠居後には関東管領の座に就いた。だが、犬懸上杉氏の勢力拡大によって脅かされた鎌倉公方山内上杉家との対立を招き、やがて応永23年(1417年)に『上杉禅秀の乱』を引き起こして翌年討たれ、関東における犬懸上杉家の勢力は消滅した。以後、関東における上杉氏の争いは山内上杉家扇谷上杉家の争いとなっていくが、氏憲の子の多くは鎌倉公方の勢力拡大を懸念する幕府に保護されて仕えたため血統は存続し、上杉教朝政憲父子が堀越公方足利政知関東執事となるなど、禅秀以降も関東の政治に足跡を残した。しかし、戦国時代を境にその動静は確認できなくなる。なお、越後守護家も家格としては犬懸流である。

系図

参考文献

  • 山田邦明「犬懸上杉氏の政治的地位」(初出:『千葉県史研究』11号別冊(2003年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻 関東管領上杉氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-084-7