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'''バーナード・マネス・バルーク'''(Bernard Mannes Baruch {{IPA-en|bəˈruːk|}}、[[1870年]][[8月19日]] - [[1965年]][[6月20日]])は[[アメリカ合衆国]]の[[官僚]]、[[政治家]]、[[投資家]]。[[サウスカロライナ州]]出身のユダヤ系アメリカ人。[[第一次世界大戦]]では[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の側近(大統領選挙に協力した見返りとして大統領府へ自由に出入りできる立場)となり、[[:en:War Industries Board|戦時産業局]]長官を務め、当時世界最大の工業国家となったアメリカにおける[[軍産複合体]]の実権を握った<ref>さらには[[パリ講和会議]]代表団[[:en:The Inquiry]]にも参加した。
'''バーナード・マネス・バルーク'''(Bernard Mannes Baruch {{IPA-en|bəˈruːk|}}、[[1870年]][[8月19日]] - [[1965年]][[6月20日]])は[[アメリカ合衆国]]の[[官僚]]、[[政治家]]、[[投資家]]。[[サウスカロライナ州]]出身のユダヤ系アメリカ人。[[第一次世界大戦]]では[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の側近(大統領選挙に協力した見返りとして大統領府へ自由に出入りできる立場)となり、[[:en:War Industries Board|戦時産業局]]長官を務め、当時世界最大の工業国家となったアメリカにおける[[軍産複合体]]の実権を握った<ref>さらには[[パリ講和会議]]代表団[[:en:The Inquiry]]にも参加した。
:Spencer Tucker, Priscilla Mary Roberts ''World War I: A Student Encyclopedia'' ABC-CLIO, 2005 pp.295-296.</ref>。以後も大統領顧問という特な立場のままアメリカの重要政策に関わり続け、ルーズベルト権が成立した1930年代は、政治的な影響力増大させる事よって金融界の大物から長老政治として転身を遂げ、[[フランクリン・ルーズヴェルト]][[大統領顧問 (ホワイトハウス)|大統領の顧問]]として大い専権るった。
:Spencer Tucker, Priscilla Mary Roberts ''World War I: A Student Encyclopedia'' ABC-CLIO, 2005 pp.295-296.</ref>。以後も歴代大統領の特別顧問という特権的な立場のままアメリカの重要政策に関わり続ける事でアメリカの執政に必要なあらゆる政治的ノウハウ学ぶと同時、重要な政治部門の実力者個人的なパイプを強化していくことで実質的に我執国大統領に匹敵する政治的影響力行使でき立場に立った。

その結果としてルーズベルト政権が成立した1930年代には、強大化した政治的な影響力を利用し、公的にも金融界の大物から長老政治家として転身を遂げることに成功。[[フランクリン・ルーズヴェルト]][[大統領顧問 (ホワイトハウス)|大統領の顧問]]として大いに専権を振るった。


[[ハリー・トルーマン]]政権でもその影響力は低下することなく[[国際連合|国連]]原子力委員会の米国代表に選ばれ、[[バルーク案]]によりアメリカの[[核兵器|核]]独占による世界平和を唱えた。[[冷戦]]という言葉を初めて使い、<ref>Gaddis 2005 , p.54</ref>それが国際政治の定理を意味する言葉になった事実を見ても、彼が極めて特権的な立場にいたスーパーエリートであったことを証明している。
[[ハリー・トルーマン]]政権でもその影響力は低下することなく[[国際連合|国連]]原子力委員会の米国代表に選ばれ、[[バルーク案]]によりアメリカの[[核兵器|核]]独占による世界平和を唱えた。[[冷戦]]という言葉を初めて使い、<ref>Gaddis 2005 , p.54</ref>それが国際政治の定理を意味する言葉になった事実を見ても、彼が極めて特権的な立場にいたスーパーエリートであったことを証明している。

2017年5月17日 (水) 23:23時点における版

バーナード・バルーク(1920年)

バーナード・マネス・バルーク(Bernard Mannes Baruch [bəˈruːk]1870年8月19日 - 1965年6月20日)はアメリカ合衆国官僚政治家投資家サウスカロライナ州出身のユダヤ系アメリカ人。第一次世界大戦ではウッドロウ・ウィルソン大統領の側近(大統領選挙に協力した見返りとして大統領府へ自由に出入りできる立場)となり、戦時産業局長官を務め、当時世界最大の工業国家となったアメリカにおける軍産複合体の実権を握った[1]。以後も歴代大統領の特別顧問という特権的な立場のままアメリカの重要政策に関わり続ける事でアメリカの執政に必要なあらゆる政治的ノウハウを学ぶと同時に、重要な政治部門の実力者と個人的なパイプを強化していくことで実質的に我執国大統領に匹敵する政治的影響力を行使できる立場に立った。

その結果としてルーズベルト政権が成立した1930年代には、強大化した政治的な影響力を利用し、公的にも金融界の大物から長老政治家として転身を遂げることに成功。フランクリン・ルーズヴェルト大統領の顧問として大いに専権を振るった。

ハリー・トルーマン政権でもその影響力は低下することなく国連原子力委員会の米国代表に選ばれ、バルーク案によりアメリカの独占による世界平和を唱えた。冷戦という言葉を初めて使い、[2]それが国際政治の定理を意味する言葉になった事実を見ても、彼が極めて特権的な立場にいたスーパーエリートであったことを証明している。

概要

ユダヤ系理学療法の先駆者だった南軍軍医総監のサイモン・バルークの家庭に生まれる。 A.A. Housman & Company(現メリルリンチ)の共同経営者としてキャリアを積んだ。 第一次世界大戦では、ウィルソン大統領の側近として戦時産業局の長官となって軍需産業を統制し、産業分野から合衆国の戦争を指揮する重要人物となった。戦時産業局はパリ講和会議の代表団と計画してブルッキングス研究所を設立した。イギリスとフランスのドイツへの賠償要求には反対し、ウィルソンの国際連盟構想を支持した[3]

ルーズヴェルト大統領はウィルソン大統領の影響を受けていたため、そのスタッフを自分の顧問にしていた。その中でもバルークはウィルソン時代より確立させた数々の業績によって、その活動内容や権限について議会による掣肘を受けないでいられるきわめて特権的な「影の大統領」とも言うべき立場にあり、事実上のトップ(名目は「私的顧問」でも実質的には「重要政策の指南役」)であったといわれる。

第二次世界大戦が始まり、軍事物資の供給が滞ったとき、ルーズヴェルトはバルークに助言を求めた。このときバルークは、内閣レベルで全ての物流を支配し、大統領がその全権を掌握するという強大な中央組織の創設を建言する。この方針に沿った機関の設立が進められ、1942年には彼 が顧問を務めるウォー・プロダクション・ボード(WPB)が組織されるなど、その権限はまさに戦時におけるアメリカの産業戦略の最高責任者といえるものであり、彼はそこで大統領の実質的な代行として内閣レベルで指揮監督される全ての物流統制を統括していた。(ただいかに信頼を得ていたとはいえ、彼にゆだねられたその強大すぎる権限は彼の実質的立場がルーズベルト大統領をしのいでいた証拠と見る向きもあり、口さがない者達からは「本当は彼のほうが国家元首ではないのか?」と皮肉めいた批評を向けられたほどだった。)

なお、原爆の開発を主導したマンハッタン計画にも関わっており、京都への原爆投下を主張していたと言われている。

出典

  1. ^ さらにはパリ講和会議代表団en:The Inquiryにも参加した。
    Spencer Tucker, Priscilla Mary Roberts World War I: A Student Encyclopedia ABC-CLIO, 2005 pp.295-296.
  2. ^ Gaddis 2005 , p.54
  3. ^ Leab, Daniel et al., ed. "The Great Depression and the New Deal: A Thematic Encyclopedia." ABC-CLIO LLC., 2010, p. 11.

参考文献

カーチス・ドール『操られたルーズヴェルト―大統領に戦争を仕掛けさせたのは誰か』