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カルロは1336年に父の跡を継ぎ、ドゥラッツォ公となった。
カルロは1336年に父の跡を継ぎ、ドゥラッツォ公となった。


1343年4月21日、アルバ女伯マリア・ディ・カラブリアと結婚した。マリアはカラブリア公[[カルロ (カラブリア公)|カルロ]]の娘でナポリ女王[[ジョヴァンナ1世 (ナポリ女王)|ジョヴァンナ1世]]の妹に当たり、当初は[[ハンガリー王国ハンガリー]]王[[ラヨシュ1世]]もしくは[[フランス王国|フランス]]王[[ジャン2世 (フランス王)|ジャン2世]]の妃となる予定であった。しかしカルロをナポリ王位継承に近づけるため、マリアはカルロと母アニェスにより誘拐され、カルロと結婚させられた。
1343年4月21日、アルバ女伯マリア・ディ・カラブリアと結婚した。マリアはカラブリア公[[カルロ (カラブリア公)|カルロ]]の娘でナポリ女王[[ジョヴァンナ1世 (ナポリ女王)|ジョヴァンナ1世]]の妹に当たり、当初は[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[ラヨシュ1世]]もしくは[[フランス王国|フランス]]王[[ジャン2世 (フランス王)|ジャン2世]]の妃となる予定であった。しかしカルロをナポリ王位継承に近づけるため、マリアはカルロと母アニェスにより誘拐され、カルロと結婚させられた。


カルロはジョヴァンナ1世の夫[[アンドレア・ドゥンゲリア|アンドレア]]の暗殺の謀略からは一線を画し、ジョヴァンナおよびその2度目の夫ターラント公ルイージとは対立した。カルロは支援を求め、ハンガリー宮廷と接触した<ref>Goldstone, p. 168</ref>。カルロは自身の目的のため、[[ラヨシュ1世のナポリ遠征|ラヨシュ1世の侵攻]]とジョヴァンナの逃亡を期待していたが、カルロは捕まえられ[[アヴェルサ]]でハンガリー人により斬首された。
カルロはジョヴァンナ1世の夫[[アンドレア・ドゥンゲリア|アンドレア]]の暗殺の謀略からは一線を画し、ジョヴァンナおよびその2度目の夫ターラント公ルイージとは対立した。カルロは支援を求め、ハンガリー宮廷と接触した<ref>Goldstone, p. 168</ref>。カルロは自身の目的のため、[[ラヨシュ1世のナポリ遠征|ラヨシュ1世の侵攻]]とジョヴァンナの逃亡を期待していたが、カルロは捕まえられ[[アヴェルサ]]でハンガリー人により斬首された。

2017年3月26日 (日) 08:13時点における版

ドゥラッツォ公カルロの紋章

カルロ・ディ・ドゥラッツォ(Carlo di Durazzo, 1323年 - 1348年1月23日)は、ナポリ王国の貴族。アンジュー=シチリア家ジョヴァンニ・ディ・ドゥラッツォとアニェス・ド・ペリゴールとの間の息子。

生涯

カルロは1336年に父の跡を継ぎ、ドゥラッツォ公となった。

1343年4月21日、アルバ女伯マリア・ディ・カラブリアと結婚した。マリアはカラブリア公カルロの娘でナポリ女王ジョヴァンナ1世の妹に当たり、当初はハンガリーラヨシュ1世もしくはフランスジャン2世の妃となる予定であった。しかしカルロをナポリ王位継承に近づけるため、マリアはカルロと母アニェスにより誘拐され、カルロと結婚させられた。

カルロはジョヴァンナ1世の夫アンドレアの暗殺の謀略からは一線を画し、ジョヴァンナおよびその2度目の夫ターラント公ルイージとは対立した。カルロは支援を求め、ハンガリー宮廷と接触した[1]。カルロは自身の目的のため、ラヨシュ1世の侵攻とジョヴァンナの逃亡を期待していたが、カルロは捕まえられアヴェルサでハンガリー人により斬首された。

アレクサンドル・デュマ・ペールは恋愛小説『ナポリのジャンヌ』(Jeanne de Naples)においてカルロをアンドレア暗殺の陰謀の首謀者とし、ハンガリー王によって死に至ったとしている。

子女

マリアとの間に5人の子女がいる。

マリアは後にターラント公フィリッポ2世と再婚した。

脚注

  1. ^ Goldstone, p. 168

参考文献

  • Goldstone, Nancy Joanna, The Notorious Queen of Naples, Jerusalem and Sicily. Weidenfeld & Nicholson, 2010.

関連項目

先代
ジョヴァンニ
ドゥラッツォ公
1336年 - 1348年
次代
ジョヴァンナ