「柳元景」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
王僧 (会話 | 投稿記録)
新しいページ: 「'''柳元景'''(りゅうげんけい、406年 - 465年)はの武将。河東解県の人。 450年、文帝...」
タグ: 参考文献(出典)に関する節がない記事の作成 カテゴリを含まない記事の作成
 
王僧 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目: 1行目:
'''柳元景'''(りゅうげんけい、[[406年]] - [[465年]])は[[宋 (南朝)|宋]]の武将。[[河東]][[解県]]の人
'''柳元景'''(りゅうげんけい、[[406年]] - [[465年]])は[[宋 (南朝)|宋]]の武将。[[本貫]]は[[河東]][[解県]]。


[[450年]]、[[文帝 (南朝宋)|文帝]]が北伐の軍を起こすと、参軍の一人として従軍した。弘農を攻め落とし、続けて陜城を攻めたが[[北魏]]の援軍に阻まれた。[[薛安都]]の奮戦によって魏軍を退けたが、[[太武帝]]の南下を聞いて襄陽まで退いた。襄陽太守に任命された。
[[450年]]、[[文帝 (南朝宋)|文帝]]が北伐の軍を起こすと、参軍の一人として従軍した。弘農を攻め落とし、続けて陜城を攻めたが[[北魏]]の援軍に阻まれた。[[薛安都]]の奮戦によって魏軍を退けたが、[[太武帝]]の南下を聞いて襄陽まで退いた。襄陽太守に任命された。

2016年12月24日 (土) 10:59時点における版

柳元景(りゅうげんけい、406年 - 465年)はの武将。本貫河東郡解県

450年文帝が北伐の軍を起こすと、参軍の一人として従軍した。弘農を攻め落とし、続けて陜城を攻めたが北魏の援軍に阻まれた。薛安都の奮戦によって魏軍を退けたが、太武帝の南下を聞いて襄陽まで退いた。襄陽太守に任命された。

465年、江夏王劉義恭と共に前廃帝の廃立を謀ったが、沈慶之の密告により殺された。