「エドワード・オブ・ミドルハム」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
7行目: 7行目:
[[1483年]]、父がイングランド王位に就くと、エドワードもまた[[プリンス・オブ・ウェールズ]](王太子)になった。叙任式典は[[ヨーク大聖堂]]で執り行われたが、同時代の資料によるとこの式典はかなり急いで手配されたことが伺える。恐らくエドワード少年は健康問題により[[ロンドン]]での両親の戴冠式にも出席できなかったため、体調の回復を待ってイングランド北部の[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]で式典を行ったのだろう。
[[1483年]]、父がイングランド王位に就くと、エドワードもまた[[プリンス・オブ・ウェールズ]](王太子)になった。叙任式典は[[ヨーク大聖堂]]で執り行われたが、同時代の資料によるとこの式典はかなり急いで手配されたことが伺える。恐らくエドワード少年は健康問題により[[ロンドン]]での両親の戴冠式にも出席できなかったため、体調の回復を待ってイングランド北部の[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]で式典を行ったのだろう。


翌[[1484年]]のエドワードの急死によって、父リチャードは後継者を失い(実子に代わって甥たち、クラレンス公の遺児[[エドワード・プランタジネット (ウォリック伯)|エドワード]]、次いで[[ジョン・ド・ラ・ポール (初代リンカーン伯)|リンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポール]]を王位継承者に指名した)、父のライバルであるリッチモンド伯[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー・テューダー]]が王位を獲得する道を開いた。エドワードはシェリフ・ハットンの教区協会に埋葬された。
翌[[1484年]]のエドワードの急死によって、父リチャードは後継者を失い(実子に代わって甥たち、クラレンス公の遺児[[エドワード・プランタジネット (ウォリック伯)|エドワード]]、次いで[[ジョン・ド・ラ・ポール (初代リンカーン伯)|リンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポール]]を王位継承者に指名した)、父のライバルであるリッチモンド伯[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー・テューダー]]が王位を獲得する道を開いた。エドワードはシェリフ・ハットンの教区協会に埋葬された。


{{start box}}
{{start box}}

2016年11月25日 (金) 07:21時点における版

エドワード・オブ・ミドルハム(Edward of Middleham, 1473年頃 - 1484年4月9日)またはエドワード・プランタジネット(Edward Plantagenet)は、イングランドの王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)であり、国王リチャード3世アン・ネヴィルの1人息子である。

生涯

エドワードの出生年は確かではないが、ミドルハム城(母方の祖父であるウォリック伯リチャード・ネヴィルの以前の所有物)で生まれたことは知られている。1478年クラレンス公ジョージが反逆罪で処刑されると、そのソールズベリー伯の称号はエドワードに与えられた(エドワードの死後、クラレンス公の遺児エドワードに返還された)。

1483年、父がイングランド王位に就くと、エドワードもまたプリンス・オブ・ウェールズ(王太子)になった。叙任式典はヨーク大聖堂で執り行われたが、同時代の資料によるとこの式典はかなり急いで手配されたことが伺える。恐らくエドワード少年は健康問題によりロンドンでの両親の戴冠式にも出席できなかったため、体調の回復を待ってイングランド北部のヨークで式典を行ったのだろう。

1484年のエドワードの急死によって、父リチャードは後継者を失い(実子に代わって甥たち、クラレンス公の遺児エドワード、次いでリンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポールを王位継承者に指名した)、父のライバルであるリッチモンド伯ヘンリー・テューダーが王位を獲得する道を開いた。エドワードはシェリフ・ハットンの教区協会に埋葬された。

先代
エドワード5世
プリンス・オブ・ウェールズ
1483年 - 1484年
次代
アーサー・テューダー
イングランドの爵位
先代
新設
ソールズベリー伯
1478年 - 1484年
次代
消滅