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'''マリー・ド・ブルボン=モンパンシエ'''('''Marie de Bourbon-Montpensier''', Mademoiselle de Montpensier, [[1605年]][[10月15日]] - [[1627年]][[6月4日]])は、[[ブルボン朝]]期の[[フランス王国|フランス]]の貴族。[[オルレアン公]][[ガストン (オルレアン公)|ガストン]]の最初の妃、またモンパンシエ公爵夫人(女公)。[[ヴァロワ朝]]以来続いた[[ブルボン家]]の支流ブルボン=モンパンシエ家の最後の末裔である。


== 生涯 ==
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マリーは2歳の時にフランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の次男の[[ムッシュ・ドルレアン|オルレアン公]]と婚約したが、オルレアン公は1611年に夭逝した。次いでその弟で新たにオルレアン公となった[[ガストン (オルレアン公)|ガストン]]と婚約した。
マリーは2歳の時にフランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の次男の[[ムッシュ・ドルレアン|オルレアン公]]と婚約したが、オルレアン公は1611年に夭逝した。次いでその弟で新たにオルレアン公となった[[ガストン (オルレアン公)|ガストン]]と婚約した。


マリーとオルレアン公ガストンは1626年に結婚した。翌1627年、2人の間に1女[[アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアン|アンヌ・マリー・ルイーズ]](1627年 - 1693年)が生まれたが、その出産後間もなくマリーは死去し、[[サン=ドニ大聖堂]]に葬られた。
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== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
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* 戸張規子 『ブルボン家の落日 ヴェルサイユの憂愁』 人文書院、1991年


== 関連項目 ==
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*[[ブルボン=モンパンシエ家]]
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2016年10月28日 (金) 12:23時点における版

マリー・ド・ブルボン=モンパンシエ

マリー・ド・ブルボン=モンパンシエMarie de Bourbon-Montpensier, Mademoiselle de Montpensier, 1605年10月15日 - 1627年6月4日)は、ブルボン朝期のフランスの貴族。オルレアン公ガストンの最初の妃、またモンパンシエ公爵夫人(女公)。ヴァロワ朝以来続いたブルボン家の支流ブルボン=モンパンシエ家の最後の末裔である。

生涯

モンパンシエ公アンリ・ド・ブルボンの唯一の子供として生まれた。1608年に父が死去するとブルボン=モンパンシエ家の相続人となり、モンパンシエ令嬢(Mademoiselle de Montpensier)と呼ばれた。母アンリエット・カトリーヌ・ド・ジョワイユーズはその後、1611年にギーズ公シャルル1世と再婚した。

マリーは2歳の時にフランス王アンリ4世の次男のオルレアン公と婚約したが、オルレアン公は1611年に夭逝した。次いでその弟で新たにオルレアン公となったガストンと婚約した。

マリーとオルレアン公ガストンは1626年にナントで結婚した[1]。翌1627年、2人の間に1女アンヌ・マリー・ルイーズ(1627年 - 1693年)が生まれたが、その出産後間もなくマリーは死去し[2]サン=ドニ大聖堂に葬られた。

脚注

  1. ^ 戸張、p. 32
  2. ^ 戸張、p. 35

参考文献

  • 戸張規子 『ブルボン家の落日 ヴェルサイユの憂愁』 人文書院、1991年

関連項目

先代
アンリ
モンパンシエ公
1608年 - 1627年
次代
アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアン