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== 略歴 ==
== 略歴 ==
*1879年([[明治]]12年)7月19日:[[福井県]]遠敷郡竹原村(現[[小浜市]])に生まれる。生家は[[小浜市]]の上級[[藩士]]の旧家筋。
[[福井県]]遠敷郡竹原村(現[[小浜市]])に生まれる。生家は[[小浜市]]の上級藩士の旧家筋。[[1895年]](明治28年)、[[大阪]]の[[ミッションスクール]][[梅花女学校]]に入学、[[1897年]](明治30年)同校を卒業。[[1900年]](明治33年)4月、母校の研究生となり英語を専修。同年、[[与謝野鉄幹]]が創刊した雑誌[[明星 (文芸誌)|明星]]に歌が掲載される。8月には鉄幹と、翌年鉄幹と結婚する[[与謝野晶子]](旧姓・鳳)に出会う。この頃、「明星」の社友となった。鉄幹を慕っていたが翌1901年(明治34年)、親の勧めた縁組により山川駐七郎と結婚、翌年死別。[[1904年]](明治37年)、[[日本女子大学]]英文科予備科に入学し[[1907年]](明治40年)3月まで在学。その間、[[与謝野鉄幹]]らがおこした新詩社に接近し、「白百合」と題して短歌131首を収載した。1905年(明治38年)、晶子らと共著『[[恋衣]]』を刊行。1909年(明治42年)、駐七郎から感染した[[結核]]が元で、生家で死去<ref>[http://rekishi.dogaclip.com/Crm/Profile-100000031.html ふくい歴史王 発掘!ふるさと人物伝 薄幸の歌人、山川登美子]</ref>。29歳の若さだった。
*[[1895年]](明治28年):[[大阪]]の[[ミッションスクール]][[梅花女学校]]に入学、[[1897年]](明治30年)同校を卒業。
*[[1900年]](明治33年)4月:母校の[[研究生]]となり英語を[[専修]]。同年、[[与謝野鉄幹]]が創刊した雑誌[[明星 (文芸誌)|明星]]に歌が掲載される。8月には鉄幹と、翌年鉄幹と結婚する[[与謝野晶子]](旧姓・鳳)に出会う。この頃、「明星」の社友となった。
*1901年(明治34年):鉄幹を慕っていたが親の勧めた[[縁組]]により山川駐七郎と結婚、翌年死別。
*[[1904年]](明治37年):[[日本女子大学]]英文科予備科に入学し[[1907年]](明治40年)3月まで在学。その間、[[与謝野鉄幹]]らがおこした新詩社に接近し、「白百合」と題して[[短歌]]131首を収載した。
*1905年(明治38年):晶子らと共著『[[恋衣]]』を刊行。
*1909年(明治42年):夫の駐七郎から感染した[[結核]]が元で、生家で死去<ref>[http://rekishi.dogaclip.com/Crm/Profile-100000031.html ふくい歴史王 発掘!ふるさと人物伝 薄幸の歌人、山川登美子]</ref>。29歳の若さだった。


== 備考 ==
== 備考 ==

2016年8月2日 (火) 10:11時点における版

山川登美子(やまかわ とみこ、1879年(明治12年)7月19日 - 1909年(明治42年)4月15日)は、歌人である。本名・とみ。

略歴

備考

  • 与謝野鉄幹により、「白百合の君」と称される。
  • 出身校である梅花女学校(現:梅花女子大学)主催で「梅花・山川登美子短歌賞」が設けられている。
  • 生前は合同歌集「恋衣」に参加したのみで個人歌集はないが、2011年今野寿美編により『山川登美子歌集』(岩波文庫)がまとめられた。

参考

永井一顕「山川登美子 明星で頭角 晶子らと歌集」読売新聞日曜版(13版) 2010年10月10日

関連項目

脚注

外部リンク