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[[1921年]]、[[ルイ・ドゥリュック]]と出逢い、著書『''Bonjour cinéma''(映画よこんにちは)』を執筆。
[[1921年]]、[[ルイ・ドゥリュック]]と出逢い、著書『''Bonjour cinéma''(映画よこんにちは)』を執筆。


[[1922年]]、映画会社[[パテ (映画会社)|パテ]]社([[:en:Pathé|Pathé]])と契約し、[[ナルボンヌ]]とワインについての[[ドキュメンタリー映画]]『''Les Vendanges''(ヴィンテージ)』、偉人伝映画『''Pasteur''(パストゥール)』で映画作家としてのキャリアをスタートし、つづいて[[1923年]]に[[バルザック]]原作『''L'Auberge rouge''(赤い宿屋)』、オリジナルの『''[[:en:Cœur fidèle|Coeur fidèle]]''(誠実な心)』を撮る。
[[1922年]]、映画会社[[パテ (映画会社)|パテ]]社([[:en:Pathé|Pathé]])と契約し、[[ナルボンヌ]]とワインについての[[ドキュメンタリー映画]]『''Les Vendanges''(ヴィンテージ)』、偉人伝映画『''Pasteur''([[パストゥール]])』で映画作家としてのキャリアをスタートし、つづいて[[1923年]]に[[バルザック]]原作『''L'Auberge rouge''(赤い宿屋)』、オリジナルの『''[[:en:Cœur fidèle|Coeur fidèle]]''(誠実な心)』を撮る。


ついでアルバトロス社に入って、『蒙古の獅子』([[1924年]])、『二重の愛』([[1925年]])等を制作するが、2年後自らの制作会社を作り、[[ジョルジュ・サンド]]原作『''Mauprat''(モープラ)』([[1926年]])や[[エドガー・アラン・ポー]]原作『アッシャー家の末裔 ''[[:en:The Fall of the House of Usher (1928 French film)|La Chute de la maison Usher]]''』([[1928年]])を制作、この2作で映画監督[[ルイス・ブニュエル]]は一介の助監督としてエプスタンについた。
ついでアルバトロス社に入って、『蒙古の獅子』([[1924年]])、『二重の愛』([[1925年]])等を制作するが、2年後自らの制作会社を作り、[[ジョルジュ・サンド]]原作『''Mauprat''(モープラ)』([[1926年]])や[[エドガー・アラン・ポー]]原作『アッシャー家の末裔 ''[[:en:The Fall of the House of Usher (1928 French film)|La Chute de la maison Usher]]''』([[1928年]])を制作、この2作で映画監督[[ルイス・ブニュエル]]は一介の助監督としてエプスタンについた。
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この間の莫大な負債のために、[[1930年]]、[[アベル・ガンス]]監督『世界の終り ''La Fin du monde''』の助監督を務めたり、[[1936年]]、[[マドレーヌ・ルノー]]主演『''Coeur de gueux''(乞食の心)』のような商業的映画を撮る。
この間の莫大な負債のために、[[1930年]]、[[アベル・ガンス]]監督『世界の終り ''La Fin du monde''』の助監督を務めたり、[[1936年]]、[[マドレーヌ・ルノー]]主演『''Coeur de gueux''(乞食の心)』のような商業的映画を撮る。


その一方で、自主制作に見切りをつけ、新しい映画形態を模索していたエプスタンは、『Finis terrae(フィニステール)』(1928年)を皮切りに、 ブルターニュ地方や周りの島々の厳しい海の生活を背景に、土地の素人を使ったドキュメンタリー風の映画をりはじめる。遺作の短編映画『Les Feux de la mer(海の火)』 ([[1948年]])に至るまでの、「ブルターニュの詩」と呼ばれる9本の作品は、今までと一変して貧しい船乗りたちのぎりぎりの生活から生まれる真実を、迫真の映像と音響で描いている。
その一方で、自主制作に見切りをつけ、新しい映画形態を模索していたエプスタンは、『Finis terrae([[フィニステール]])』(1928年)を皮切りに、 [[ブルターニュ]]地方や周りの島々の厳しい海の生活を背景に、土地の素人を使ったドキュメンタリー風の映画をりはじめる。遺作の短編映画『Les Feux de la mer(海の火)』 ([[1948年]])に至るまでの、「ブルターニュの詩」と呼ばれる9本の作品は、今までと一変して貧しい船乗りたちのぎりぎりの生活から生まれる真実を、迫真の映像と音響で描いている。


[[1953年]][[4月3日]]、[[パリ]]で死去。56歳。
[[1953年]][[4月3日]]、[[パリ]]で死去。56歳。

2016年2月23日 (火) 14:06時点における版

ジャン・エプスタン
Jean Epstein
生年月日 (1897-03-25) 1897年3月25日
没年月日 (1953-04-03) 1953年4月3日(56歳没)
出生地 ワルシャワ
死没地 パリ
国籍 フランスの旗 フランス
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ジャン・エプスタンJean Epstein1897年3月25日 ワルシャワ - 1953年4月3日 パリ) は、フランス映画監督、黎明期の映画理論家ジャン・エプスタインとも。

人物・来歴

1897年3月25日ポーランドワルシャワで生まれる。父がフランス人、母がポーランド人。科学をスイスとフランス・リヨンで学ぶ。

1920年、著書『La Poésie d'aujourd'hui, un nouvel état de l'intelligence(今日のポエジー、知性の新しい様相)』を刊行。

1921年ルイ・ドゥリュックと出逢い、著書『Bonjour cinéma(映画よこんにちは)』を執筆。

1922年、映画会社パテ社(Pathé)と契約し、ナルボンヌとワインについてのドキュメンタリー映画Les Vendanges(ヴィンテージ)』、偉人伝映画『Pasteurパストゥール)』で映画作家としてのキャリアをスタートし、つづいて1923年バルザック原作『L'Auberge rouge(赤い宿屋)』、オリジナルの『Coeur fidèle(誠実な心)』を撮る。

ついでアルバトロス社に入って、『蒙古の獅子』(1924年)、『二重の愛』(1925年)等を制作するが、2年後自らの制作会社を作り、ジョルジュ・サンド原作『Mauprat(モープラ)』(1926年)やエドガー・アラン・ポー原作『アッシャー家の末裔 La Chute de la maison Usher』(1928年)を制作、この2作で映画監督ルイス・ブニュエルは一介の助監督としてエプスタンについた。

この間の莫大な負債のために、1930年アベル・ガンス監督『世界の終り La Fin du monde』の助監督を務めたり、1936年マドレーヌ・ルノー主演『Coeur de gueux(乞食の心)』のような商業的映画を撮る。

その一方で、自主制作に見切りをつけ、新しい映画形態を模索していたエプスタンは、『Finis terrae(フィニステール)』(1928年)を皮切りに、 ブルターニュ地方や周りの島々の厳しい海の生活を背景に、土地の素人を使ったドキュメンタリー風の映画を撮りはじめる。遺作の短編映画『Les Feux de la mer(海の火)』 (1948年)に至るまでの、「ブルターニュの詩」と呼ばれる9本の作品は、今までと一変して貧しい船乗りたちのぎりぎりの生活から生まれる真実を、迫真の映像と音響で描いている。

1953年4月3日パリで死去。56歳。

エプスタンの批評は初期のモダニスト雑誌『レスプリ・ヌーヴォー 』に掲載された[1]

2005年8月、中篇映画『La Glace à trois faces(三面鏡)』(1927年)と短編映画『Le TempestaireThe Tempest、テンペスト)』(1947年)がDVDコレクション「Avant-Garde: Experimental Cinema of the 1920s and 1930s」として、米国で再生産・再発売された[1]。エプスタンの名は、現在シネマテーク・フランセーズの上映ホール名に、アンリ・ラングロワロッテ・アイスナーとともに遺されている。

主な監督作

関連項目

  1. ^ a b 英語版Wikipedia Jean Epsteinの項の記述より。

外部リンク