「吉川朝経」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
7行目: 7行目:
| 生誕 = [[治承]]6年([[1182年]])
| 生誕 = [[治承]]6年([[1182年]])
| 死没 = [[仁治]]元年[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]([[1240年]][[10月19日]])
| 死没 = [[仁治]]元年[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]([[1240年]][[10月19日]])
| 改名 = 経兼→朝経
| 改名 = 経兼→朝経→常全(法名)
| 別名 =
| 別名 =
| 戒名 = 常全
| 戒名 =
| 墓所 =
| 墓所 =
| 官位 = [[左衛門尉]]
| 官位 = [[左衛門尉]]

2015年12月22日 (火) 13:58時点における版

 
吉川朝経
時代 鎌倉時代
生誕 治承6年(1182年
死没 仁治元年10月3日1240年10月19日
改名 経兼→朝経→常全(法名)
官位 左衛門尉
主君 鎌倉幕府
氏族 藤原南家工藤流吉川氏
父母 父:吉川友兼
船越維定
経光
テンプレートを表示

吉川 朝経(きっかわ ともつね)は、鎌倉時代武士御家人吉川氏の3代当主。

生涯

正治2年(1200年)の梶原景時一族追討(梶原景時の変)の際に父吉川友兼を失うも、亡父の功と本人の功を讃えられて加増され、梶原氏の所領であった播磨国福井荘の地頭に任ぜられた。

仁治元年(1240年)に死去。

嫡男である経光とは生年が僅か10年しか変わらないため、兄弟もしくは親戚筋からの養子の可能性もある。

参考資料

  • 北広島町史
  • 中国新聞社『歴史紀行 安芸吉川氏』新人物往来社、1988年6月。ISBN 4-404-01517-8 
  • 岡部忠夫『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQ 

関連項目

先代
吉川友兼
吉川氏歴代当主
1200年 - 1240年
次代
吉川経光