「ハマト・ガデル」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
翻訳元の記事にいくつか出典が付記されているのでen:Hamat Gader(12:32, 7 November 2015‎)History節のModern history節を除く部分を訳する
翻訳元の記事に要出典が付けられている文をコメントアウトする
1行目: 1行目:
[[画像:Hot springs in Hamat Gader.jpg|right|thumb|300px|日中のハマト・ガデル]]
[[画像:Hot springs in Hamat Gader.jpg|right|thumb|180px|日中のハマト・ガデル]]
[[画像:Hamat gader at night.jpg|right|thumb|300px|夜間のハマト・ガデル]]
[[画像:Hamat gader at night.jpg|right|thumb|180px|夜間のハマト・ガデル]]
'''ハマト・ガデル'''([[ヘブライ語]]:'''חמת גדר''')は[[イスラエル]]の[[ティベリアス湖]]に近い[[ヤルムーク川]]にある地名。その名『ガダラの温泉』は50℃以下の鉱物泉が複数あることに由来する。[[ガダラ]]は現在の[[ヨルダン]]領[[ウンム・カイス]]([[:en:Umm Qais|Umm Qais]])であり、ここから4kmの距離にある。
'''ハマト・ガデル'''([[ヘブライ語]]:'''חמת גדר''')は[[イスラエル]]の[[ティベリアス湖]]に近い[[ヤルムーク川]]にある温泉保養地。イスラエル、ヨルダン、[[シリア]]の国境が交わる地点に位置し、イスラエル領となっている<ref name="c-jiten">宇野「ハマットガデル」『世界地名大事典』3、770頁</ref>。その名『ガダラの温泉』は50℃以下の鉱物泉が複数あることに由来する。[[ガダラ]]は現在の[[ヨルダン]]領[[ウンム・カイス]]([[:en:Umm Qais|Umm Qais]])であり、ここから4kmの距離にある。[[アラビア語]]では「温泉」を意味する「ハンマ(al-Hanma)」と呼ばれている<ref name="c-jiten"/>


<!-- ハマト・ガデルの古名は現地語の地名『エル・ハンマ』([[アラビア語]]:الحمّـة、[[ヘブライ語]]:אל חמה)に残り、近くの小山の名称テル・バニは『浴場』を意味する[[ギリシア語]]が訛ったもの。 -->
ハマト・ガデルはイスラエル、ヨルダン、[[シリア]]の国境地帯に位置する<ref>グーグルアース上ではヨルダン領に位置するが、英語原文ではイスラエル側の資料を参照しイスラエルの温泉として紹介している。日本語版のカテゴリー分類では便宜上現在の温泉・行楽施設をイスラエル、その他遺跡をヨルダンとする。</ref>。

ハマト・ガデルの古名は現地語の地名『エル・ハンマ』([[アラビア語]]:الحمّـة、[[ヘブライ語]]:אל חמה)に残り、近くの小山の名称テル・バニは『浴場』を意味する[[ギリシア語]]が訛ったもの。


==歴史==
==歴史==
===古代・中世===
===古代・中世===
[[ローマ帝国]]時代には既にハマト・ガデルは保養地として広く知られていた。<ref>{{cite journal|last1=Hirschfeld|first1=Yizhar|title=The History and Town-Plan of Ancient Ḥammat Gādẹ̄r|journal=Zeitschrift des Deutschen Palästina-Vereins|date=1987|volume=103|pages=101-116|url=http://www.jstor.org/stable/27931308|accessdate=28 May 2015}}</ref>[[ストラボン]]<ref>''Geog''. XVI, 45.</ref>、[[オリゲネス]]<ref>Commentary on St. John, VI, 41, 210</ref>、{{仮リンク|エウナピオス|en|Eunapius}}<ref name=EANE>''Vit. Soph.'' 368-370. {{cite encyclopedia| first = Zvi Uri | last = Ma'oz | encyclopedia = The Oxford Encyclopedia of Archaeology in the Near East | contribution = HAMMATH-GADER | date = 1997 | isbn = 0195112156 | page = 468}}</ref>らによって言及され、[[1世紀|紀元1世紀]]の[[ラビ文学]]でも言及されている。
[[ローマ帝国]]時代には既にハマト・ガデルは保養地として広く知られていた。<ref>{{cite journal|last1=Hirschfeld|first1=Yizhar|title=The History and Town-Plan of Ancient Ḥammat Gādẹ̄r|journal=Zeitschrift des Deutschen Palästina-Vereins|date=1987|volume=103|pages=101-116|url=http://www.jstor.org/stable/27931308|accessdate=28 May 2015}}</ref>温泉の存在は[[ストラボン]]<ref>''Geog''. XVI, 45.</ref>、[[オリゲネス]]<ref>Commentary on St. John, VI, 41, 210</ref>、{{仮リンク|エウナピオス|en|Eunapius}}<ref name=EANE>''Vit. Soph.'' 368-370. {{cite encyclopedia| first = Zvi Uri | last = Ma'oz | encyclopedia = The Oxford Encyclopedia of Archaeology in the Near East | contribution = HAMMATH-GADER | date = 1997 | isbn = 0195112156 | page = 468}}</ref>らによって言及され、[[1世紀|紀元1世紀]]の[[ラビ文学]]でもハマト・ガデルについて触れられている。


[[2世紀]]にガダラの町に駐屯する{{仮リンク|第10軍団フレテンシス|en|Legio X Fretensis|label=ローマ第10軍団}}によって公衆浴場が建設される。公衆浴場の跡地から建設期間は2つに分かれていることが明らかになっている。ローマ帝国・[[東ローマ帝国]]の時代に公衆浴場の大部分が建設され、イスラム勢力の支配期には既存の建設物に大幅な変更が加えられる。<ref>[http://www.hamat-gader.com/hamatInfo.php?subjId=history&linkOrder=9&subLink=18 Hamat Gader Information Site]</ref>
[[2世紀]]にガダラの町に駐屯する{{仮リンク|第10軍団フレテンシス|en|Legio X Fretensis|label=ローマ第10軍団}}によって公衆浴場が建設される。公衆浴場の跡地から建設期間は2つに分かれていることが明らかになっている。ローマ帝国・[[東ローマ帝国]]の時代に公衆浴場の大部分が建設され、イスラム勢力の支配期には既存の建設物に大幅な変更が加えられる。<ref>[http://www.hamat-gader.com/hamatInfo.php?subjId=history&linkOrder=9&subLink=18 Hamat Gader Information Site]{{リンク切れ|date=2015年11月}}</ref>


遺跡に含まれる[[ローマ劇場]]は3世紀に建設されたもので、2,000の客席を有する。大[[シナゴーグ]]は[[5世紀]]に建立されたものである。.<ref>Eleazar Sukenik, "The ancient synagogue at Hamat Gader" (in Qobes, Jewish Palestine Exploration Society, 1934), pp. 41-61</ref>
遺跡に含まれる[[ローマ劇場]]は3世紀に建設されたもので、2,000の客席を有する。大[[シナゴーグ]]は[[5世紀]]に建立されたものである<ref>Eleazar Sukenik, "The ancient synagogue at Hamat Gader" (in Qobes, Jewish Palestine Exploration Society, 1934), pp. 41-61</ref>


地震によっていくつかの建物が破損するが、[[633年]]に[[ダマスカス]]の[[ウマイヤ朝]]の[[カリフ]]によって修復された。1世紀後の[[749年]]に[[ガラリヤ]]で発生した地震の被害を受ける。最終的に浴場は[[9世紀]]に放棄され、遺跡の跡地は厚い[[シルト]]の層に覆われた。
[[7世紀]]に発生した地震によっていくつかの建物が破損するが<ref name="c-jiten"/>、[[633年]]に[[ダマスカス]]の[[ウマイヤ朝]]の[[カリフ]]によって修復された。1世紀後の[[749年]]に[[ガラリヤ]]で発生した地震の被害を受ける。最終的に浴場は[[9世紀]]に放棄され、遺跡の跡地は厚い[[シルト]]の層に覆われた。


===近現代===
===近現代===
26行目: 24行目:
この一件は『エル・ハンマ事件』(ヘブライ語:תקרית אל-חמה)と呼ばれる。-->
この一件は『エル・ハンマ事件』(ヘブライ語:תקרית אל-חמה)と呼ばれる。-->


[[1967年]]の[[6日間戦争]]中に[[イスラエル国防軍|イスラエル軍]]が[[ゴラン高原]]を制圧するとイスラエル人が自由にこの地に出入できるようになり、行楽地としての開発がすすんだ。健康リゾートの開設は[[1977年]]のことである<ref>[http://www.hamat-gader.com/hamatInfo.php?subjId=todayProfile&linkOrder=9&subLink=20 Hamat Gader in the 20th Century]</ref>。
[[1967年]]の[[6日間戦争]]中に[[イスラエル国防軍|イスラエル軍]]が[[ゴラン高原]]を制圧するとイスラエル人が自由にこの地に出入できるようになり、行楽地としての開発がすすんだ。[[1977年]]に温泉保養施設建設が開始され、ヘブライ語のハマト・ガデルに改称された<ref name="c-jiten"/>。

== 脚注 ==
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
* 宇野昌樹「ハマットガデル」『世界地名大事典』3収録(朝倉書店, 2012年11月)


==外部リンク==
==外部リンク==
34行目: 38行目:
*[http://nakba-online.tripod.com/Al-Hamma.htm Al-Hamma]
*[http://nakba-online.tripod.com/Al-Hamma.htm Al-Hamma]


==参考資料==

{{reflist}}
{{DEFAULTSORT:はまとかてる}}
{{DEFAULTSORT:はまとかてる}}
[[Category:温泉地]]
[[Category:温泉地]]

2015年11月15日 (日) 10:17時点における版

日中のハマト・ガデル
夜間のハマト・ガデル

ハマト・ガデルヘブライ語חמת גדר)はイスラエルティベリアス湖に近いヤルムーク川にある温泉保養地。イスラエル、ヨルダン、シリアの国境が交わる地点に位置し、イスラエル領となっている[1]。その名の『ガダラの温泉』は50℃以下の鉱物泉が複数あることに由来する。ガダラは現在のヨルダンウンム・カイスUmm Qais)であり、ここから4kmの距離にある。アラビア語では「温泉」を意味する「ハンマ(al-Hanma)」と呼ばれている[1]


歴史

古代・中世

ローマ帝国時代には既にハマト・ガデルは保養地として広く知られていた。[2]温泉の存在はストラボン[3]オリゲネス[4]エウナピオス[5]らによって言及され、紀元1世紀ラビ文学でもハマト・ガデルについて触れられている。

2世紀にガダラの町に駐屯するローマ第10軍団英語版によって公衆浴場が建設される。公衆浴場の跡地から建設期間は2つに分かれていることが明らかになっている。ローマ帝国・東ローマ帝国の時代に公衆浴場の大部分が建設され、イスラム勢力の支配期には既存の建設物に大幅な変更が加えられる。[6]

遺跡に含まれるローマ劇場は3世紀に建設されたもので、2,000の客席を有する。大シナゴーグ5世紀に建立されたものである[7]

7世紀に発生した地震によっていくつかの建物が破損するが[1]633年ダマスカスウマイヤ朝カリフによって修復された。1世紀後の749年ガラリヤで発生した地震の被害を受ける。最終的に浴場は9世紀に放棄され、遺跡の跡地は厚いシルトの層に覆われた。

近現代

イギリス領パレスチナフランス領シリアの境界が1923年に引かれると、エル・ハンマ(現イスラエル)とウンム・カイス(現ヨルダン)とその間にあるハマト・ガデルはイギリス領入りした[8]

第1次中東戦争ののちイスラエル領になったこの地はシリア軍に占拠された。

1967年6日間戦争中にイスラエル軍ゴラン高原を制圧するとイスラエル人が自由にこの地に出入できるようになり、行楽地としての開発がすすんだ。1977年に温泉保養施設の建設が開始され、ヘブライ語のハマト・ガデルに改称された[1]

脚注

  1. ^ a b c d 宇野「ハマットガデル」『世界地名大事典』3、770頁
  2. ^ Hirschfeld, Yizhar (1987). “The History and Town-Plan of Ancient Ḥammat Gādẹ̄r”. Zeitschrift des Deutschen Palästina-Vereins 103: 101-116. http://www.jstor.org/stable/27931308 2015年5月28日閲覧。. 
  3. ^ Geog. XVI, 45.
  4. ^ Commentary on St. John, VI, 41, 210
  5. ^ Vit. Soph. 368-370. Ma'oz, Zvi Uri (1997). "HAMMATH-GADER". The Oxford Encyclopedia of Archaeology in the Near East. p. 468. ISBN 0195112156
  6. ^ Hamat Gader Information Site[リンク切れ]
  7. ^ Eleazar Sukenik, "The ancient synagogue at Hamat Gader" (in Qobes, Jewish Palestine Exploration Society, 1934), pp. 41-61
  8. ^ "The Line of June 4, 1967", Frederic C. Hof, Jewish Virtual Library

参考文献

  • 宇野昌樹「ハマットガデル」『世界地名大事典』3収録(朝倉書店, 2012年11月)

外部リンク