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[[守護]][[赤松氏]]の本拠である[[置塩城]]に住んだとされる(「備前軍記」など)。
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9歳になった時、[[備前国]]で大叔父・[[浦上宗景]]と対立する[[宇喜多直家]]により、正統な浦上家の当主として擁立され、[[岡山城]]へ迎えられた。その結果、配下の国人らの相次ぐ離反によって、宗景は天神山城から播磨国へと退去した。天正元年([[1573年]])東播磨の[[三木城]]主・[[別所長治]]の後援を受けて、黒田職隆に属する[[小寺高友|小寺休夢]]のいる[[増位山 (兵庫県)|増位山]]を攻撃する。職隆・休夢らは有明山城に入って交戦するが、別所勢はこれを破った。
9歳になった時、[[備前国]]で大叔父・[[浦上宗景]]と対立する[[宇喜多直家]]により、正統な浦上家の当主として擁立され、[[岡山城]]へ迎えられた。その結果、配下の国人らの相次ぐ離反によって、宗景は天神山城から播磨国へと退去した。天正元年([[1573年]])東播磨の[[三木城]]主・[[別所長治]]の後援を受けて、黒田職隆に属する[[小寺休夢]]のいる[[増位山 (兵庫県)|増位山]]を攻撃する。職隆・休夢らは有明山城に入って交戦するが、別所勢はこれを破った。


一方で久松丸も、間もなく直家に毒殺されたとも伝えられる(美作沼本家文書、小寺家文書、「吉備前鑑」「備前記」など)。また「書写山十地坊過去帳」には、永禄10年([[1567年]])に父・二郎九郎とともに死亡したという記述がある。
一方で久松丸も、間もなく直家に毒殺されたとも伝えられる(美作沼本家文書、小寺家文書、「吉備前鑑」「備前記」など)。また「書写山十地坊過去帳」には、永禄10年([[1567年]])に父・二郎九郎とともに死亡したという記述がある。

2015年8月19日 (水) 12:55時点における版

浦上 久松丸(うらがみ ひさまつまる 永禄10年(1567年) - 天正3年(1575年)頃)は浦上誠宗浦上政宗の次男)の子。母は黒田職隆の娘[1]で、叔父・清宗の未亡人。

経歴

守護赤松氏の本拠である置塩城に住んだとされる(「備前軍記」など)。

9歳になった時、備前国で大叔父・浦上宗景と対立する宇喜多直家により、正統な浦上家の当主として擁立され、岡山城へ迎えられた。その結果、配下の国人らの相次ぐ離反によって、宗景は天神山城から播磨国へと退去した。天正元年(1573年)東播磨の三木城主・別所長治の後援を受けて、黒田職隆に属する小寺休夢のいる増位山を攻撃する。職隆・休夢らは有明山城に入って交戦するが、別所勢はこれを破った。

一方で久松丸も、間もなく直家に毒殺されたとも伝えられる(美作沼本家文書、小寺家文書、「吉備前鑑」「備前記」など)。また「書写山十地坊過去帳」には、永禄10年(1567年)に父・二郎九郎とともに死亡したという記述がある。

脚注

  1. ^ 『備前軍記』では黒田孝高の子としているが、年齢が合わないため職隆の娘か養女と考えられている。

参考文献

  • 橋本政次『姫路城史』
  • 森俊弘「備前浦上氏関連説話の研究」(東備歴史研究会『東備』第9号、2002 所収)
  • 塙保己一『続群書類従』第三十三輯