「クイックモーション」の版間の差分

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当時の野村には「盗塁阻止3秒説」という持論があり、投手がモーションに入ってから[[捕手]]の[[ミット]]に届くまでに約1.1秒、二塁に送球して[[走者]]にタッチするまでの時間を約1.8秒とし、合計約3秒で送球すれば盗塁した走者を刺せると考えていた。そのうえで野村は「二盗をアウトにするためには投手の投げるモーションにかかる時間を短くする方法以外に手はない」という結論に達し、投球動作を素早くするクイックモーションを考案。当初は投手陣から反発を受けるも次第に受け入れられていき、後にはクイックモーションを進化させて足をほとんど上げずに投げる「すり足クイック」も考案した。
当時の野村には「盗塁阻止3秒説」という持論があり、投手がモーションに入ってから[[捕手]]の[[ミット]]に届くまでに約1.1秒、二塁に送球して[[走者]]にタッチするまでの時間を約1.8秒とし、合計約3秒で送球すれば盗塁した走者を刺せると考えていた。そのうえで野村は「二盗をアウトにするためには投手の投げるモーションにかかる時間を短くする方法以外に手はない」という結論に達し、投球動作を素早くするクイックモーションを考案。当初は投手陣から反発を受けるも次第に受け入れられていき、後にはクイックモーションを進化させて足をほとんど上げずに投げる「すり足クイック」も考案した。

一方セ・リーグでは野村に先んじて1971年の日本シリーズで[[堀内恒夫]]がクイックモーションを導入し、福本をわずか一盗塁に押さえ込んでいる。<ref>[http://www.excite.co.jp/News/sports_g/20150201/Postseven_300056.html] </ref>。第1戦の9回裏、出塁した福本を捕手[[森昌彦]]が刺したことで、福本は思うように走れなくなってしまったと語っており、翌1972年の日本シリーズでも同様に1盗塁に封じ込められている。


1973年にクイックモーションを多用した南海がリーグ優勝を果たしたことで、クイックモーションは他チームにも広まった。クイックモーションが浸透する以前は「盗塁を許したら捕手の責任」と言われていたが、これ以降「盗塁を刺すのは投手と捕手の共同作業」というのが一般的な見解となった。なお、パリーグ全体の盗塁数はクイックモーションの普及により1975年頃から減少しており、福本本人に関しては1974年94盗塁23盗塁死、1975年は63盗塁12盗塁死、1974年62盗塁17盗塁死を記録。クイックモーションが浸透した時期に成績を落とすがそれでも8割超の成功率を最晩年まで維持し当時の盗塁世界記録を樹立した。
1973年にクイックモーションを多用した南海がリーグ優勝を果たしたことで、クイックモーションは他チームにも広まった。クイックモーションが浸透する以前は「盗塁を許したら捕手の責任」と言われていたが、これ以降「盗塁を刺すのは投手と捕手の共同作業」というのが一般的な見解となった。なお、パリーグ全体の盗塁数はクイックモーションの普及により1975年頃から減少しており、福本本人に関しては1974年94盗塁23盗塁死、1975年は63盗塁12盗塁死、1974年62盗塁17盗塁死を記録。クイックモーションが浸透した時期に成績を落とすがそれでも8割超の成功率を最晩年まで維持し当時の盗塁世界記録を樹立した。

2015年2月3日 (火) 07:26時点における版

クイックモーションとは、投手が投球動作を小さく素早くすることで盗塁を防ぐ投法のこと。クイック投法、略してクイックとも呼ばれる。なお、クイックモーションという呼称は和製英語であり、大リーグにおいてはスライドステップ(slide step) と呼ばれる。

概要

足をマウンドからスライドさせるように投げたり、あらかじめ膝を曲げて重心を低くしたりするなど、何らかの投球動作を簡略化して投げる。一般に投球開始から捕手にボールが到達するまでの時間が1.2秒台で及第点とされる[1]

走者の盗塁を防ぐ効果が期待できる一方で、通常の投球と異なるメカニズムで投げるため、球速や制球が劣化する傾向がある。また、無理なフォームから投じることで故障につながる場合もある。このため、クイックモーションを用いずにセットポジションから牽制球を多投することで走者の動きを封じようとする投手もいる。なお、左投げ投手は右足をまっすぐに上げた状態から一塁牽制も投球もできるため、クイックモーションは使用しない場合が多い。

変則的な使用方法として、走者がいない場面において打者のタイミングを外す目的でクイックモーションが用いられることもある[2]

日本球界においては盗塁阻止は投手と捕手の共同作業と考えられており、鈴木孝政は牽制とクイックモーションができない投手はプロ野球では通用しないと説いている[3]。一方、メジャーリーグでは牽制やクイックは日本ほど重視されず、より打者を打ち取ることに意識が向けられる傾向にある[4]。日米両方でプレー経験のある桑田真澄はクイックモーションに対し懐疑的な意見を唱えている[要出典]

歴史

1972年頃に南海ホークス選手兼任監督だった野村克也ドン・ブレイザーヘッドコーチとともに考案したとされる[5]。その狙いは1970年以降盗塁王タイトルを獲得し続けていた阪急ブレーブス福本豊の足を封じることにあった。それまで野村は福本の盗塁を阻止するために「ささやき戦術」「牽制球で悪送球させ、わざと進塁させて二塁で刺殺する」「牽制球で福本の脚にぶつける」「二死時に投手である前打者出塁させる[6]」など、様々な案を考えたが、どれも長続きせず、すぐに通用しなくなった。

当時の野村には「盗塁阻止3秒説」という持論があり、投手がモーションに入ってから捕手ミットに届くまでに約1.1秒、二塁に送球して走者にタッチするまでの時間を約1.8秒とし、合計約3秒で送球すれば盗塁した走者を刺せると考えていた。そのうえで野村は「二盗をアウトにするためには投手の投げるモーションにかかる時間を短くする方法以外に手はない」という結論に達し、投球動作を素早くするクイックモーションを考案。当初は投手陣から反発を受けるも次第に受け入れられていき、後にはクイックモーションを進化させて足をほとんど上げずに投げる「すり足クイック」も考案した。

一方セ・リーグでは野村に先んじて1971年の日本シリーズで堀内恒夫がクイックモーションを導入し、福本をわずか一盗塁に押さえ込んでいる。[7]。第1戦の9回裏、出塁した福本を捕手森昌彦が刺したことで、福本は思うように走れなくなってしまったと語っており、翌1972年の日本シリーズでも同様に1盗塁に封じ込められている。

1973年にクイックモーションを多用した南海がリーグ優勝を果たしたことで、クイックモーションは他チームにも広まった。クイックモーションが浸透する以前は「盗塁を許したら捕手の責任」と言われていたが、これ以降「盗塁を刺すのは投手と捕手の共同作業」というのが一般的な見解となった。なお、パリーグ全体の盗塁数はクイックモーションの普及により1975年頃から減少しており、福本本人に関しては1974年94盗塁23盗塁死、1975年は63盗塁12盗塁死、1974年62盗塁17盗塁死を記録。クイックモーションが浸透した時期に成績を落とすがそれでも8割超の成功率を最晩年まで維持し当時の盗塁世界記録を樹立した。

脚注

関連項目