「コルモラン (仮装巡洋艦・2代)」の版間の差分

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== 概要 ==
== 概要 ==
元来、本艦は[[ハンブルク]]のハンブルク-アメリカ汽船がフリードリヒ・クルップ社[[キール (ドイツ)|キール]]造船所で建造した貨客船「シュタイエルマルク(Steiermark)」であった<ref name=anzac>「世界の艦船」2000年11月号(No.575)pp.90-92</ref>。これをドイツ海軍が徴用して仮装巡洋艦に改装した<ref name=anzac/>。仮装巡洋艦として就役後、本艦は11隻の商船を撃沈し、1隻の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]艦船を撃破した。
元来、本艦は[[ハンブルク]]のハンブルク-アメリカ汽船が{{仮リンク|フリードリヒ・クルップAG|de|Friedrich Krupp AG|label=フリードリヒ・クルップ社}}[[キール (ドイツ)|キール]]造船所で建造した貨客船「シュタイエルマルク(Steiermark)」であった<ref name=anzac>「世界の艦船」2000年11月号(No.575)pp.90-92</ref>。これをドイツ海軍が徴用して仮装巡洋艦に改装した<ref name=anzac/>。仮装巡洋艦として就役後、本艦は11隻の商船を撃沈し、1隻の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]艦船を撃破した。


== 艦形 ==
== 艦形 ==

2015年1月28日 (水) 21:56時点における版


仮装巡洋艦「コルモラン」。
艦歴
発注 フリードリヒ・クルップ社キール造船所
起工 1938年9月15日に改装
進水
就役 1941年9月に「コルモラン」として就役。
除籍
その後 1941年11月20日に戦没。
性能諸元(仮装巡洋艦時代のもの)
排水量 常備:8,736トン
満載:-トン
全長 164.0m
水線長 -m
全幅 20.2m
吃水 8.5m
機関 形式不明9気筒ディーゼル機関4基
+形式不明電気モーター2基2軸推進
最大出力 16,000hp
最大速力 18.0ノット
航続距離 17ノット/50,000海里
10ノット/84,500海里
乗員 士官:18名
水兵:375名
戦闘兵7名
兵装 クルップ 15cm(45口径)単装砲6基
7.5cm(35口径)単装高角砲1基
3.7cm(45口径)カノン砲2基
2cm(65口径)単装機関砲5基
53.3cm連装魚雷発射管2基
53.3cm水中魚雷発射管2基
機雷360個
艦載艇1隻
航空兵装 水上機アラド196水上機 2機

コルモランHilfskreuzer Kormoran)は第二次世界大戦中にドイツ海軍が就役させた仮装巡洋艦である。

概要

元来、本艦はハンブルクのハンブルク-アメリカ汽船がフリードリヒ・クルップ社キール造船所で建造した貨客船「シュタイエルマルク(Steiermark)」であった[1]。これをドイツ海軍が徴用して仮装巡洋艦に改装した[1]。仮装巡洋艦として就役後、本艦は11隻の商船を撃沈し、1隻の連合軍艦船を撃破した。

艦形

Uボートから撮影されたコルモラン

前身の貨客船「シュタイエルマルク」は、三島型の典型的な商船型船型であった。仮装巡洋艦として行動する際には中立国の商船に偽装する必要があったため、武装類は外観からそれと判らないように隠ぺいされており、原型の船形を活用して偽装を図っていた。

主砲の15cm単装砲は、船首楼と船尾楼の側面部を切り欠いて片舷2箇所ずつ計4箇所設けた隠顕砲座と、前部・中部甲板下の貨物倉に各1箇所ずつ計2箇所設けた隠顕砲座に配置した。舷側の4基は航海時には外板で隠されていたが、戦闘時には油圧シリンダーで外板が持ち上げられて砲座が現れる構造とした。他に船首楼に7.5cm高角砲1基、船体中央部に3.7cmカノン砲を片舷1基ずつ計2基を配置していた。後部の貨物倉にはアラド196水上機2機を搭載し、その発進・収容には固有のデリックが用いられた。

兵装

主砲にはクルップ 1908 15cm(45口径)単装砲を採用した。その性能は、重量45.3kgの砲弾を仰角30度で19,600mまで届かせることができた。砲身の俯仰能力は仰角30度・俯角10度で、300度旋回可能であったが実際は上部構造物により射界が制限された。装填形式は自由角度装填で、発射速度は人力装填のため毎分5~7発であった。これを6基搭載した。

対空兵装として、1934年型 7.5cm(35口径)単装高角砲を採用した。その性能は、重量5.8kgの砲弾を仰角30度で19,600mまで届かせることができた。砲身の俯仰能力は仰角80度・俯角10度で、300度旋回可能であったが実際は上部構造物により射界が制限された。装填形式は自由角度装填で、発射速度は毎分15発であった。これを1基搭載した。

近接火器として、2cm(65口径)機関砲を単装砲架で5丁、3.7cm(45口径)カノン砲を単装砲架で2基装備した。

水雷兵装として53.3cm魚雷発射管を搭載し、連装水上発射管と単装水中魚雷発射管各2基を装備した。他に機雷360個を搭載可能であった。

乗員の移動用に小型のLS-3蒸気船1隻を搭載した。

艦歴

就役から第二次世界大戦

コルモランの元乗員と士官。

本艦は、キール造船所で改装を受け、艦長デトマース少佐(作戦中に中佐に昇進[1])が1940年9月10日に着任し、10月に「コルモラン」として就役した。12月3日にゴーテンハーフェンから出撃し、ソ連の貨物船「ヴャチェスラフ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)」に偽装して12月10日にバルト海を離れ、12日に荒天を利用してグリーンランド海峡を通過した[1]。以後、インド洋からオーストラリア西方付近の海域で通商破壊任務に就き[1]、11隻の敵商船を拿捕・撃沈した。

  • 大西洋での戦果
船名 被害時 トン数(BRT) 国籍
(Antonis) 1941年 3,729トン ギリシャ
(British Union) 1941年 6,987トン イギリス
(Afric Star) 1941年 11,900トン イギリス
(Eurylochus) 1941年 5,273トン ギリシャ
(Agnita) 1941年 3,552トン イギリス
(Canadolite) 1941年 11,309トン カナダ
(Craftsman) 1941年 8,022トン イギリス
(Nicolaos D. L.) 1941年 5,486トン ギリシャ
  • 太平洋での戦果
船名 被害時 トン数(BRT) 国籍
(Velebit) 1941年 4,153トン ユーゴスラビア
Mareeba 1941年 3,472トン オーストラリア
(Stamatios G. Embirikos) 1941年 3,941トン ギリシャ

最後の戦闘

本艦と戦い、撃沈された「シドニー」。

オランダ商船「Straat Malakka」を装った本艦は、1941年11月29日、西オーストラリア・シャーク湾沖約170浬の海域で、オーストラリア海軍リアンダー級軽巡洋艦シドニー」と遭遇した[1]。シドニーからは発光信号で船名を確認する旨の信号が送られたが、本艦は信号が判らないふりをして時間稼ぎをした。その後もオランダ商船を装いながら、旗りゅう信号などで停船命令に従いつつ脱出の機会をうかがい、距離が1,300mまで縮まった後、本艦はオランダ商船旗を降ろし、ドイツ軍艦旗を掲げて近距離砲戦に移行した[1]

至近距離での発砲となったことから、本艦の射弾は初弾からシドニーに命中し、艦橋や射撃指揮装置を破壊した[1]。これによりシドニーは有効な対処ができなくなり、更に本艦が発射した魚雷が1番主砲塔直下に命中して前部主砲群が使用不能となった[1]。シドニーは後部3・4番主砲で応戦を続けたが、その後も着弾が相次いで火災を起こし、次第に本艦から離れていった[1]

本艦もシドニーの射弾を各所に受け、機関部への被弾により燃料タンクから出火した。また、機関部を損傷したため、消火ポンプの動力が絶たれて消火活動ができなくなり、火災が全船に拡大して機雷への誘爆の危険が高まったことから、艦長は艦の放棄を決意した[1]。幸い、艦載艇は無事だったので、生存乗員は脱出することができた。この海戦(en:Battle between HMAS Sydney and German auxiliary cruiser Kormoran)でコルモランの乗員約82名(士官5名、水兵52名、中国人の洗濯屋1名)が死傷し、残りの317名(そのうち3名は中国人の洗濯屋)はオーストラリアの捕虜となった[1]。シドニーもこの戦闘で沈没し、生存者はなかった[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 「世界の艦船」2000年11月号(No.575)pp.90-92

参考文献

  • 世界の艦船 ドイツ巡洋艦史」(海人社
  • 「世界の艦船増刊第46集 イギリス巡洋艦史」(海人社)
  • 「世界の艦船」2000年11月号(No.575) ANZACの海軍特集(海人社)
  • 「ドイツ海軍入門 広田厚司」(光人社)
  • 「Conway All The World's Fightingships 1922-1946」(Conway)

関連項目

外部リンク