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== 日本におけるラマーズ法 ==
== 日本におけるラマーズ法 ==
病院で管理された医師主導の分娩が主流となった1960年代に日本に紹介された。助産婦のサポートで産婦が夫とともに自立的に出産に臨み「いいお産」「自然なお産」ができると考えられ、ウーマンリブ活動家や助産婦、主体的に産みたい妊婦たちからの支持を受けて広まった。1990年代なかばには、医師側からの理解も進み、ラマーズ法はあたりまえの存在になっていった。
病院で管理された医師主導の分娩が主流となった1960年代に日本に紹介された。助産婦のサポートで産婦が夫とともに自立的に出産に臨み「いいお産」「自然なお産」ができると考えられ、ウーマンリブ活動家や助産婦、主体的に産みたい妊婦たちからの支持を受けた。1978年に朝日新聞の連載「お産革命」<ref name=":4" />で紹介され、ラマーズ法が全国的に知られるようになる<ref name=":1" /><ref name=":2" />。杉山次子は医師や助産婦の協力を得て、東京に「お産の学校」を開校し、ラマーズ法1990年代なかばには、医師側からの理解も進み、ラマーズ法はあたりまえの存在になっていった。


* 1960年代後半、日本に紹介される<ref>『お産革命』</ref>。
* 1960年代後半、日本に紹介される<ref>『お産革命』</ref>。
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* 1972年ごろから、日赤医療センターの雨森良彦はラマーズ法で出産希望の外国人夫婦らを受け入れ始める<ref name=":1">『お産革命』</ref>。
* 1972年ごろから、日赤医療センターの雨森良彦はラマーズ法で出産希望の外国人夫婦らを受け入れ始める<ref name=":1">『お産革命』</ref>。
* 1973年、ウーマンリブ活動家の山田美津子<ref>日隈ふみ子 戦後日本の自然出産の流れ - 女性と助産婦との関係に焦点をあてて -</ref>は『女のからだ』翻訳時に日本ペアレントクラフトで講師養成の講座を受講。、女性が主体的に自分の出産にかかわるラマーズ法は、ウーマンリブの女性たちにも歓迎され、準備出産クラスが開かれるようになっていく<ref name=":2">『自然なお産を求めて』</ref>。
* 1973年、ウーマンリブ活動家の山田美津子<ref>日隈ふみ子 戦後日本の自然出産の流れ - 女性と助産婦との関係に焦点をあてて -</ref>は『女のからだ』翻訳時に日本ペアレントクラフトで講師養成の講座を受講。、女性が主体的に自分の出産にかかわるラマーズ法は、ウーマンリブの女性たちにも歓迎され、準備出産クラスが開かれるようになっていく<ref name=":2">『自然なお産を求めて』</ref>。
* 1975年ごろ、立川市の所産婦[[三森孔子]]はラマーズ法に出会い、ラマーズ法による出産を三森助産院でどnどん手がけるようになる。三森はラマーズ法に独自の工夫を加え、「三森式ラマーズ法」といわれる方法をあみだしていった<ref name=":0" /><ref name=":3">『すてきなラマーズ法お産』</ref><ref>中島勝枝『産む女。産まない女。産めない女。』主婦の友社 1987年</ref>。
* 1975年ごろ、立川市の所産婦[[三森孔子]]はラマーズ法に出会い<ref>三森は、もともと 『助産婦雑誌』(医学書院)でラマーズ法について読んで「これはよさそうだな」と思っていた、と『すてきなラマーズ法お産』で述懐している。</ref>、ラマーズ法による出産を三森助産院でどnどん手がけるようになる。三森はラマーズ法に独自の工夫を加え、「三森式ラマーズ法」といわれる方法をあみだしていった<ref name=":0" /><ref name=":3">『すてきなラマーズ法お産』</ref><ref>中島勝枝『産む女。産まない女。産めない女。』主婦の友社 1987年</ref>。
* 1977年、「産婆の学校」が開校し三森も講師として参加<ref name=":2" /><ref name=":3" />。
* 1977年、「産婆の学校」が開校し三森も講師として参加<ref name=":2" /><ref name=":3" />。
* 1978年11月25日、朝日新聞記者の[[藤田真一]]が連載「お産革命」<ref>加筆改稿のうえで『お産革命』として翌1979年に単行本化</ref>でラマーズ法と三森助産院を紹介し、ラマーズ法が全国的に知られるようになる<ref name=":1" /><ref name=":2" />。
* 1978年、聖母病院で尾島信夫医師によりラマーズ式分娩が採用される<ref name=":0" />。
* 1978年11月25日、朝日新聞記者の[[藤田真一]]が連載「お産革命」<ref name=":4">加筆改稿のうえで『お産革命』として翌1979年に単行本化</ref>でラマーズ式無痛分娩法と三森助産院を紹介し、ラマーズ法が全国的に知られるようになる<ref name=":1" /><ref name=":2" />。
* 1980年代前半になると婦団体もラマーズ法を積極的に後押しし広めるようにな<ref name=":2" />。
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* 1980年3月、「お産の学校」が開校。お産の学校は、ラマーズ法普及大きな役割を果た、1980年代なかごろラマーズ法へ理解も進み、一般に広く受け入れられるようになる<ref name=":2" />。
* 1980年代前半には、助産婦団体もラマーズ法を積極的後押し広めるようなり病院で産前教育広く取り入れられるようになる<ref name=":2" /><ref>[https://soar-ir.shinshu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10091/14590/1/Nurshing_Research14-14.pdf 「お産の学級」への取り組み -母親学級の見直しー]</ref>。
* 1980年代なかごろには、ラマーズ法への理解も進み、一般に広く受け入れられるようになる<ref name=":2" />。
* 1986年、医師によるラマーズ法研究会が立ち上げられる<ref>[http://www.lamaze.gr.jp/about_lamaze_200308.html 林弘平 新ラマーズ法研究会をつくったわけと、これから ]</ref>
* 1986年、医師によるラマーズ法研究会が立ち上げられる<ref>[http://www.lamaze.gr.jp/about_lamaze_200308.html 林弘平 新ラマーズ法研究会をつくったわけと、これから ]</ref>
* 1996年、「お産の学校」が受講生の減少もあり、100期を区切りとして閉校<ref name=":2" />。
* 1996年、「お産の学校」が受講生の減少もあり、100期を区切りとして閉校<ref name=":2" />。

2014年10月29日 (水) 16:52時点における版

ラマーズ法(ラマーズほう、英語:Lamaze Technique)は、フェルナン・ラマーズ(Fernand Lamaze)が1951年ごろに開拓した無痛分娩法で、日本も含めた世界で採用されている。「ヒッ・ヒッ・フー」の呼吸法で知られる自然分娩法のひとつで、多く麻酔分娩と対比される[1]

日本におけるラマーズ法

病院で管理された医師主導の分娩が主流となった1960年代に日本に紹介された。助産婦のサポートで産婦が夫とともに自立的に出産に臨み「いいお産」「自然なお産」ができると考えられ、ウーマンリブ活動家や助産婦、主体的に産みたい妊婦たちからの支持を受けた。1978年に朝日新聞の連載「お産革命」[2]で紹介され、ラマーズ法が全国的に知られるようになる[3][4]。杉山次子は医師や助産婦の協力を得て、東京に「お産の学校」を開校し、ラマーズ法1990年代なかばには、医師側からの理解も進み、ラマーズ法はあたりまえの存在になっていった。

  • 1960年代後半、日本に紹介される[5]
  • 1971年、日本ペアレントクラフトが設立され、在日アメリカ人らを対象にアメリカ式のラマーズ法を教えるようになる[6]
  • 1972年ごろから、日赤医療センターの雨森良彦はラマーズ法で出産希望の外国人夫婦らを受け入れ始める[3]
  • 1973年、ウーマンリブ活動家の山田美津子[7]は『女のからだ』翻訳時に日本ペアレントクラフトで講師養成の講座を受講。、女性が主体的に自分の出産にかかわるラマーズ法は、ウーマンリブの女性たちにも歓迎され、準備出産クラスが開かれるようになっていく[4]
  • 1975年ごろ、立川市の所産婦三森孔子はラマーズ法に出会い[8]、ラマーズ法による出産を三森助産院でどnどん手がけるようになる。三森はラマーズ法に独自の工夫を加え、「三森式ラマーズ法」といわれる方法をあみだしていった[6][9][10]
  • 1977年、「産婆の学校」が開校し三森も講師として参加[4][9]
  • 1978年、聖母病院で尾島信夫医師によりラマーズ式分娩が採用される[6]
  • 1978年11月25日、朝日新聞記者の藤田真一が連載「お産革命」[2]でラマーズ式無痛分娩法と三森助産院を紹介し、ラマーズ法が全国的に知られるようになる[3][4]
  • 1980年3月、「お産の学校」が開校し、多数の受講者を集めて17年にわたって続き、ラマーズ法普及に大きな役割を果たした[4]
  • 1980年代前半には、助産婦団体もラマーズ法を積極的に後押しし広めるようになり、病院での産前教育にも広く取り入れられるようになる[4][11]
  • 1980年代なかごろには、ラマーズ法への理解も進み、一般に広く受け入れられるようになる[4]
  • 1986年、医師によるラマーズ法研究会が立ち上げられる[12]
  • 1996年、「お産の学校」が受講生の減少もあり、100期を区切りとして閉校[4]

脚注

  1. ^ 吉田和枝、2008年「欧米および日本における産痛対応法の比較史的研究」『大阪大学大学院人間科学研究科紀要』34巻269~290ページ(2011年1月16日閲覧)、279ページ目参照。
  2. ^ a b 加筆改稿のうえで『お産革命』として翌1979年に単行本化
  3. ^ a b c 『お産革命』
  4. ^ a b c d e f g h 『自然なお産を求めて』
  5. ^ 『お産革命』
  6. ^ a b c 『自然なお産を求めて』
  7. ^ 日隈ふみ子 戦後日本の自然出産の流れ - 女性と助産婦との関係に焦点をあてて -
  8. ^ 三森は、もともと 『助産婦雑誌』(医学書院)でラマーズ法について読んで「これはよさそうだな」と思っていた、と『すてきなラマーズ法お産』で述懐している。
  9. ^ a b 『すてきなラマーズ法お産』
  10. ^ 中島勝枝『産む女。産まない女。産めない女。』主婦の友社 1987年
  11. ^ 「お産の学級」への取り組み -母親学級の見直しー
  12. ^ 林弘平 新ラマーズ法研究会をつくったわけと、これから 

参考文献

  • Lamaze, Fernand、Vellay、1952年12月「L'accouchement sans douleur par la méthode psychophysique; premiers résultats portant sur 500 cas(英訳:Painless labor by a psychophysical method; first results of 500 cases)」『Gazette Medicale De France』59巻23号1445~1460ページ、PMID 13043777
  • 安井 眞奈美 『出産環境の民俗学―“第三次お産革命”にむけて 』昭和堂  2013年
  • 杉山次子・堀江優子『自然なお産を求めて 産む側から見た日本ラマーズ法小史』 勁草書房 1996年
  • 藤田真一『お産革命』朝日新聞社 1979年(昭和54年)
  • 三森孔子『産婆さんがすすめる すてきなラマーズ法お産』文化出版局 1978年
  • ぐるーぷ・はなみずき『7年目のラブレター ラマーズ法出産を広めた三森孔子の素顔』  ぐるーぷ・はなみずき 1993年

関連項目

外部リンク