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== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
陸軍中将 [[山本鶴一]]の子として生まれる。本籍は[[島根県]]。大正12年、[[東京都立日比谷高等学校|東京府立第一中学校]]四修卒業、[[第一高等学校 (旧制) |第一高等学校]]を経て、昭和4年、[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]法律学科を経て、[[商工省]]入省。入省同期に、石坂善五郎([[石炭庁]]資材局長)など。昭和13年9月、応召。昭和15年、陸軍主計中尉に。同年9月、商工省に復帰、総務局生産拡充課長。昭和20年6月、[[軍需省]]総動員局総務課長。同年11月、商工省終戦連絡部長。
陸軍中将 [[山本鶴一]]の子として生まれる<ref>[[読売新聞]] 1944年2月26日付 夕刊2面</ref>。本籍は[[島根県]]。大正12年、[[東京都立日比谷高等学校|東京府立第一中学校]]四修卒業、[[第一高等学校 (旧制) |第一高等学校]]を経て、昭和4年、[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]法律学科を経て、[[商工省]]入省。入省同期に、石坂善五郎([[石炭庁]]資材局長)など。昭和13年9月、応召。昭和15年、陸軍主計中尉に。同年9月、商工省に復帰、総務局生産拡充課長。昭和20年6月、[[軍需省]]総動員局総務課長。同年11月、商工省終戦連絡部長<ref>『東京府立第一中学校五十年史』巻末「如蘭会員及現在生徒名簿」(東京府立第一中学校、1929年)、『日本官僚制総合事典 1868-2000』([[東京大学出版会]]、2001年)など。</ref>


戦後の昭和21年9月、[[経済安定本部]]部員になる。安本官房長時代(1947年6月9日 - 1948年10月22日)、[[都留重人]]、[[稲葉秀三]]と共に「安本三派烏」と括られ、当時を代表する[[エコノミスト]]の一人に数えられ、退官後も新聞紙上で経済見通しなどを語っていた。また[[岸信介]]や[[椎名悦三郎]]、[[美濃部洋次]]らと並び称される戦後通産人脈を代表する一人でもある。
戦後の昭和21年9月、[[経済安定本部]]部員になる。安本官房長時代(1947年6月9日 - 1948年10月22日)、[[都留重人]]、[[稲葉秀三]]と共に「安本三派烏」と括られ、当時を代表する[[エコノミスト]]の一人に数えられ、退官後も新聞紙上で経済見通しなどを語っていた<ref>読売新聞 1958年9月10日付 4面、同1958年1月14日付 夕刊6面、同1959年6月19日付 4面 など。</ref>。また[[岸信介]]や[[椎名悦三郎]]、[[美濃部洋次]]らと並び称される戦後通産人脈を代表する一人でもある。


昭和23年10月、商工省繊維局長(1948年10月22日 - 同年11月8日)、同年11月、同省総務局長(1948年11月8日 - 1949年5月24日)。昭和24年5月、商工省改め新制通商産業[[次官]]就任。同年6月に初代[[経済産業事務次官|通商産業事務次官]]に就任。昭和27年3月まで務めた。昭和24年(1949年)5月の新制通商産業省の組織改編では、当初、[[通商政策局|通商畑]]の局長級を当時の[[外務省]]に握られていたように、国内の統制経済からの脱却と貿易の再開に向けて、内部部局の名称も官房以外全て「通商 ~ 局」と付き、[[貿易|通商]]を重視した内部構成となっていたが、[[朝鮮特需]]や[[貿易自由化]]の本格化に伴い、産業や経済規模も戦前の水準のそれを超えるようになった。そのため、次官の山本はじめ主流の「統制派」が主導権を握っていき、次の事務次官となる[[玉置敬三]]の下で、昭和27年(1952年)8月、内部の各部局の名称から「通商」の文字が外された。<!-- 出典は、当時の読売新聞の通産人事と絡めた国内経済情勢の分析記事や、『日本官僚制総合事典 1868-2000』(東京大学出版会、2001年)の通産省の項目など。のち出典の補足をしてみたい。 -->
昭和23年10月、商工省繊維局長(1948年10月22日 - 同年11月8日)、同年11月、同省総務局長(1948年11月8日 - 1949年5月24日)。昭和24年5月、商工省改め新制通商産業[[次官]]就任。同年6月に初代[[経済産業事務次官|通商産業事務次官]]に就任。昭和27年3月まで務めた。


昭和24年(1949年)5月の新制通商産業省の組織改編では、当初、[[通商政策局|通商畑]]の局長級を当時の[[外務省]]に握られていたように、国内の[[統制経済]]からの脱却と貿易の再開に向けて、内部部局の名称も官房以外全て「通商 ~ 局」と付き、[[貿易|通商]]を重視した内部構成となっていたが、[[朝鮮特需]]や[[貿易自由化]]の本格化に伴い、産業や経済規模も戦前の水準のそれを超えるようになった。そのため、次官の山本はじめ主流の「統制派」が主導権を握っていき、次の事務次官となる[[玉置敬三]]の下で、昭和27年(1952年)8月、内部の各部局の名称から「通商」の文字が外された<ref>『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』(戦前期官僚制研究会編、東京大学出版会、1981年)、『日本官僚制総合事典 1868-2000』(東京大学出版会、2001年)など。
退官後は、旧[[富士製鐵]]副社長に就任した。55歳
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退官後は、旧[[富士製鐵]]副社長に就任後、[[永野重雄]]から同社社長の座を譲られる目前で急逝<!-- 読売新聞記事に掲載。のち補足してみたい。 -->。55歳。

== 脚注 ==
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2014年5月6日 (火) 06:13時点における版

山本高行(やまもと たかゆき 1907年2月28日 - 1961年5月17日)は、日本官僚

来歴・人物

陸軍中将 山本鶴一の子として生まれる[1]。本籍は島根県。大正12年、東京府立第一中学校四修卒業、第一高等学校を経て、昭和4年、東京帝国大学法学部法律学科を経て、商工省入省。入省同期に、石坂善五郎(石炭庁資材局長)など。昭和13年9月、応召。昭和15年、陸軍主計中尉に。同年9月、商工省に復帰、総務局生産拡充課長。昭和20年6月、軍需省総動員局総務課長。同年11月、商工省終戦連絡部長[2]

戦後の昭和21年9月、経済安定本部部員になる。安本官房長時代(1947年6月9日 - 1948年10月22日)、都留重人稲葉秀三と共に「安本三派烏」と括られ、当時を代表するエコノミストの一人に数えられ、退官後も新聞紙上で経済見通しなどを語っていた[3]。また岸信介椎名悦三郎美濃部洋次らと並び称される戦後通産人脈を代表する一人でもある。

昭和23年10月、商工省繊維局長(1948年10月22日 - 同年11月8日)、同年11月、同省総務局長(1948年11月8日 - 1949年5月24日)。昭和24年5月、商工省改め新制通商産業次官就任。同年6月に初代通商産業事務次官に就任。昭和27年3月まで務めた。

昭和24年(1949年)5月の新制通商産業省の組織改編では、当初、通商畑の局長級を当時の外務省に握られていたように、国内の統制経済からの脱却と貿易の再開に向けて、内部部局の名称も官房以外全て「通商 ~ 局」と付き、通商を重視した内部構成となっていたが、朝鮮特需貿易自由化の本格化に伴い、産業や経済規模も戦前の水準のそれを超えるようになった。そのため、次官の山本はじめ主流の「統制派」が主導権を握っていき、次の事務次官となる玉置敬三の下で、昭和27年(1952年)8月、内部の各部局の名称から「通商」の文字が外された[4]

退官後は、旧富士製鐵副社長に就任後、永野重雄から同社社長の座を譲られる目前で急逝。55歳。

脚注

  1. ^ 読売新聞 1944年2月26日付 夕刊2面
  2. ^ 『東京府立第一中学校五十年史』巻末「如蘭会員及現在生徒名簿」(東京府立第一中学校、1929年)、『日本官僚制総合事典 1868-2000』(東京大学出版会、2001年)など。
  3. ^ 読売新聞 1958年9月10日付 4面、同1958年1月14日付 夕刊6面、同1959年6月19日付 4面 など。
  4. ^ 『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』(戦前期官僚制研究会編、東京大学出版会、1981年)、『日本官僚制総合事典 1868-2000』(東京大学出版会、2001年)など。