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⚫ | '''山吉 久盛'''(やまよし ゆきもり、生没年不詳<ref>後世系図の『山吉家家譜』では山吉義長の別名が久盛とされ、生年が[[応永]]22年([[1415年]])、没年が[[文明 (日本)|文明]]2年([[1470年]])とされている。しかし山吉氏の戦国以前の系譜は信がおけないと |
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| 氏名 = 山吉久盛 |
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| 官位 = 伊予守 |
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| 子 = [[山吉正盛|正盛]]、[[上杉房実]]室 |
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| 特記事項 = |
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⚫ | '''山吉 久盛'''(やまよし ゆきもり、生没年不詳<ref>後世系図の『山吉家家譜』では山吉義長の別名が久盛とされ、生年が[[応永]]22年([[1415年]])、没年が[[文明 (日本)|文明]]2年([[1470年]])とされている。しかし山吉氏の戦国以前の系譜は信がおけないと指摘する研究(『三条市史』136頁)もあり、生年を含めた『山吉家家譜』の記述と一次史料からの久盛の活動時期には齟齬がある。[[元禄]]16年([[1703年]])に写され、成立年代が最も古く、比較的信頼度が高いと一部の研究(『戦国大名論集 上杉氏の研究』82頁)で評価されている『山吉家伝記之写』には久盛の記載はない。久盛の記載のある他の後世系図(『越後三条山吉系図』等)でも、兄弟等記事の内容の異同は大きい。</ref>)は[[室町時代]]の[[武士]]。[[応永の乱 (越後国)|応永の乱]]時の[[越後国]][[三条城]]主。通称[[大炊助]]。 |
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== 概要 == |
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== 参考文献 == |
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*三条市史編修委員会『三条市史』通史編 上巻、1983年 |
* 三条市史編修委員会『三条市史』通史編 上巻、1983年 |
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*三条史史編修委員会『三条市史』資料編 第二巻 中世、1979年 |
* 三条史史編修委員会『三条市史』資料編 第二巻 中世、1979年 |
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* 山吉家家譜(井形朝良著) |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2013年11月29日 (金) 14:54時点における版
時代 | 戦国時代 |
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官位 | 伊予守 |
主君 | 上杉房定 |
氏族 | 山吉氏 |
父母 | 父:山吉行盛 母:上杉憲栄の娘 |
兄弟 | 郁姫(長尾頼景室)、清姫(深沢忠綱室)、盛忠、大多和義長 |
妻 | 大多和義賢の娘 |
子 | 正盛、上杉房実室 |
山吉 久盛(やまよし ゆきもり、生没年不詳[1])は室町時代の武士。応永の乱時の越後国三条城主。通称大炊助。
概要
子は山吉正盛。応永30年(1423年)に勃発した応永の乱では、山吉氏は守護代長尾邦景の有力被官として、守護方の中条房資らと対峙することとなった。邦景方の内部分裂などにより、翌年には乱は一旦休止するが、その間の応永31年(1424年)、中条氏の分家金山氏分の段銭請取状に署名しているのが、久盛の初見史料である。
その後、越後は再び争乱となり、享徳3年(1454年)にまとめられた「中条秀叟(房資)記録」によれば、応永33年(1426年)、守護方の攻撃を受けながらも三条城を守りぬいた。この乱は最終的には邦景方が勝利し、山吉家の守護代から与えられた諸権利も守られた。
文安元年(1444年)、本成寺に対して打渡状を出しているほか、長尾実景から本成寺に出された遵行状の宛先として、文安3年(1446年)までその存在が史料上確認できる。
脚注
参考文献
- 三条市史編修委員会『三条市史』通史編 上巻、1983年
- 三条史史編修委員会『三条市史』資料編 第二巻 中世、1979年
- 山吉家家譜(井形朝良著)