「西ヶ原遊廓」の版間の差分
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'''西ヶ原遊郭'''(にしがはらゆうかく)は、かつて[[岐阜県]][[土岐郡]]多治見町(現在の[[多治見市]])に存在した[[遊廓]]。 |
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[[岐阜市|岐阜]]の[[金津園|金津遊郭]]、[[大垣市|大垣]]の旭遊郭と並ぶ[[東濃地方|東濃]]随一の遊郭であった。現在の[[新羅神社 (多治見市)|新羅神社]]北側、広小路2丁目南存在した。 |
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[[明治]]22年([[1889年]])町制施行当時の |
[[明治]]22年([[1889年]])町制施行当時の多治見町に西ヶ原遊郭が設置された。明治37年([[1904年]])7月9日から11日までの大雨で[[土岐川]]・笠原川合流地点が決壊し、多治見西部が浸水し遊郭一帯も床上3、4尺(約0.9m~1.2m)浸水した。 |
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[[昭和]]5年([[1929年]])全盛期当時の娼楼は11軒、遊女87人だったという<ref>参考資料:『日本全国遊廓一覧』(上村行彰)1929年</ref>。 昭和33年([[1958年]])[[売春防止法]]施行により廃止された。 |
[[昭和]]5年([[1929年]])全盛期当時の娼楼は11軒、遊女87人だったという<ref>参考資料:『日本全国遊廓一覧』(上村行彰)1929年</ref>。 昭和33年([[1958年]])[[売春防止法]]施行により廃止された。 |
2013年8月31日 (土) 08:02時点における版
西ヶ原遊郭(にしがはらゆうかく)は、かつて岐阜県土岐郡多治見町(現在の多治見市)に存在した遊廓。
概要
岐阜の金津遊郭、大垣の旭遊郭と並ぶ東濃随一の遊郭であった。現在の新羅神社北側、広小路2丁目南存在した。
明治22年(1889年)町制施行当時の多治見町に西ヶ原遊郭が設置された。明治37年(1904年)7月9日から11日までの大雨で土岐川・笠原川合流地点が決壊し、多治見西部が浸水し遊郭一帯も床上3、4尺(約0.9m~1.2m)浸水した。
昭和5年(1929年)全盛期当時の娼楼は11軒、遊女87人だったという[1]。 昭和33年(1958年)売春防止法施行により廃止された。
脚注
- ^ 参考資料:『日本全国遊廓一覧』(上村行彰)1929年
参考文献
- 『多治見市史』(多治見市・多治見市史編纂室)1980年