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[[ファイル:Francisco de Zurbarán 034.jpg|right|thumb|250px|幼いキリストを抱く聖パドヴァのアントニオ、[[フランシスコ・デ・スルバラン]]画]] |
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聖'''パドヴァのアントニオ'''([[イタリア語]]:'''Sant'Antonio di Padova'''、[[ポルトガル語]]:'''Santo António de Lisboa'''、[[1195年]] - [[1231年]][[6月13日]])は、[[カトリック教会]]の聖人。[[教会博士]]の一人。本名はフェルナンド・マルティンス・デ・ブリャォン(Fernando Martins de Bulhão)といい、[[リスボン]]で貴族の子として生まれた。そのため、'''リスボンのアントニオ'''とも呼ばれる。[[アッシジのフランチェスコ]]に共感し、彼の創設した[[フランシスコ会]]に入会。イタリアや南フランスといった地域を巡り、精力的に活動するも、パドヴァ近郊で病没した。未だ30代半ばであった。説法に優れ、生前から民衆にも大変人気のある人物であったという。彼の絵画や肖像では、幼子のキリストを抱き、本とユリの花、パンがともに描かれている。祝日は6月13日。[[パドヴァ]]、[[ポルトガル]]、[[ブラジル]] |
聖'''パドヴァのアントニオ'''([[イタリア語]]:'''Sant'Antonio di Padova'''、[[ポルトガル語]]:'''Santo António de Lisboa'''、[[1195年]] - [[1231年]][[6月13日]])は、[[カトリック教会]]の聖人。[[教会博士]]の一人。本名はフェルナンド・マルティンス・デ・ブリャォン(Fernando Martins de Bulhão)といい、[[リスボン]]で貴族の子として生まれた。そのため、'''リスボンのアントニオ'''とも呼ばれる。[[アッシジのフランチェスコ]]に共感し、彼の創設した[[フランシスコ会]]に入会。イタリアや南フランスといった地域を巡り、精力的に活動するも、パドヴァ近郊で病没した。未だ30代半ばであった。説法に優れ、生前から民衆にも大変人気のある人物であったという。彼の絵画や肖像では、幼子のキリストを抱き、本とユリの花、パンがともに描かれている。祝日は6月13日。[[パドヴァ]]、[[ポルトガル]]、[[ブラジル]]の守護聖人。 |
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2013年6月12日 (水) 07:32時点における版
聖パドヴァのアントニオ(イタリア語:Sant'Antonio di Padova、ポルトガル語:Santo António de Lisboa、1195年 - 1231年6月13日)は、カトリック教会の聖人。教会博士の一人。本名はフェルナンド・マルティンス・デ・ブリャォン(Fernando Martins de Bulhão)といい、リスボンで貴族の子として生まれた。そのため、リスボンのアントニオとも呼ばれる。アッシジのフランチェスコに共感し、彼の創設したフランシスコ会に入会。イタリアや南フランスといった地域を巡り、精力的に活動するも、パドヴァ近郊で病没した。未だ30代半ばであった。説法に優れ、生前から民衆にも大変人気のある人物であったという。彼の絵画や肖像では、幼子のキリストを抱き、本とユリの花、パンがともに描かれている。祝日は6月13日。パドヴァ、ポルトガル、ブラジルの守護聖人。