「第二次サウード王国」の版間の差分

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[[1818年]]に[[第一次サウード王国]]が[[オスマン帝国]]とエジプト軍によって滅ぼされた。
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[[1824年]]、王族[[トゥルキー・イブン=アブドゥッラーフ]]が[[リヤド]]に移って建国した。第一次サウード王国同様に[[ワッハーブ派]][[イマーム]]が国王兼帯。
[[1824年]]、王族{{仮リンク|トゥルキー・イブン=アブドゥッラーフ|en|Turki bin Abdullah bin Muhammad}}が[[リヤド]]に移って建国した。第一次サウード王国同様に[[ワッハーブ派]][[イマーム]]が国王兼帯。


内紛が激しく、[[ナジュド]]北部の{{仮リンク|ラシード家|en|Al Rashid}}([[:en:Emirate of Jabal Shammar]])に実権を奪われるようになる。
内紛が激しく、[[ナジュド]]北部の{{仮リンク|ラシード家|en|Al Rashid}}([[:en:Emirate of Jabal Shammar]])に実権を奪われるようになる。


[[1891年]]、最後の王である[[アブドゥルラハマーン・イブン・ファイサル・アル・サウード]]がラシ-ド家からの実権回復に失敗してリヤドを追われたために滅亡した([[:en:Battle of Mulayda]])。
[[1891年]]、最後の王である{{仮リンク|アブドゥルラハマーン・イブン・ファイサル・アル・サウード|en|Abdul Rahman bin Faisal}}がラシ-ド家からの実権回復に失敗してリヤドを追われたために滅亡した([[:en:Battle of Mulayda]])。


== 影響 ==
その後[[1902年]]にリャド奪還に成功した、[[クウェート]]に逃れていたアブドゥルラハマーン・イブン・ファイサル・アル・サウードの子[[アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード]]により、[[1932年]]に[[サウジアラビア]]王国が建国された。
[[クウェート]]に逃れていたアブドゥルラハマーン・イブン・ファイサル・アル・サウードの子[[アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード]]が[[1902年]]にリャド奪還に成功し、[[1932年]]に[[サウジアラビア]]王国が建国された。


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2013年5月1日 (水) 16:18時点における版

第二次サウード王国
الدولة السعودية الثانية
第一次サウード王国 1824年 - 1891年 :en:Emirate of Jabal Shammar
:en:Muscat and Oman
:en:Aden Protectorate
第二次サウード王国の国旗
(国旗)
第二次サウード王国の位置
第二次サウード王国の版図
公用語 アラビア語
首都 リヤド
君主
1744年 - 1768年 トゥルキー・イブン=アブドゥッラーフ(初代)
変遷
成立 1824年
滅亡1891年

第二次サウード王国は、1824年から1891年まで存在したイスラム国家である。

歴史

1818年第一次サウード王国オスマン帝国とエジプト軍によって滅ぼされた。

1824年、王族トゥルキー・イブン=アブドゥッラーフ英語版リヤドに移って建国した。第一次サウード王国同様にワッハーブ派イマームが国王兼帯。

内紛が激しく、ナジュド北部のラシード家英語版en:Emirate of Jabal Shammar)に実権を奪われるようになる。

1891年、最後の王であるアブドゥルラハマーン・イブン・ファイサル・アル・サウード英語版がラシ-ド家からの実権回復に失敗してリヤドを追われたために滅亡した(en:Battle of Mulayda)。

影響

クウェートに逃れていたアブドゥルラハマーン・イブン・ファイサル・アル・サウードの子アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード1902年にリャド奪還に成功し、1932年サウジアラビア王国が建国された。