「ダニイル・シャフラン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Tribot (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
21行目: 21行目:
1950年にシャフランは、彼がそれまで頼りにしていた家族や先生と離れ、[[モスクワ]]に移った。これは彼に芸術上の危機をもたらした<ref name=Silberkvit/> <ref name=Campbell/>。シャフランの初期の活動は、彼自身の観察に依れば、「非常に困難でした。私はへまをやらかしましたがこれは全く自然なことです<ref name=Silberkvit/>。」多くの神童たち同様、シャフランも成熟した芸術家に成長する必要があり、彼の最初の妻でありリサイタルのパートナーであったニーナ・ムシニャンが、過去と決別して新たな視野を広げる様促し<ref name=Silberkvit/>、この点で彼の非常な助けとなった<ref name=Campbell/>。
1950年にシャフランは、彼がそれまで頼りにしていた家族や先生と離れ、[[モスクワ]]に移った。これは彼に芸術上の危機をもたらした<ref name=Silberkvit/> <ref name=Campbell/>。シャフランの初期の活動は、彼自身の観察に依れば、「非常に困難でした。私はへまをやらかしましたがこれは全く自然なことです<ref name=Silberkvit/>。」多くの神童たち同様、シャフランも成熟した芸術家に成長する必要があり、彼の最初の妻でありリサイタルのパートナーであったニーナ・ムシニャンが、過去と決別して新たな視野を広げる様促し<ref name=Silberkvit/>、この点で彼の非常な助けとなった<ref name=Campbell/>。


彼の初期のコンサートや録音がシャフランの当時の評判を明らかにする。最初の録音は十四歳の時のロココ変奏曲。[[1946年]]には[[ルーマニア]]で[[ジョルジェ・エネスク]]をピアノに迎えての演奏会。[[1954年]]作曲者自身の棒のもと[[カバレフスキー]]の[[チェロ協奏曲第1番 (カバレフスキー)|チェロ協奏曲第1番]]を録音。この時カバレフスキーは感銘を受け、[[チェロ協奏曲第2番 (カバレフスキー)|チェロ協奏曲第2番]]をシャフランに献呈することとなる。[[1965年]]にはこの作品を初演、録音している。[[1956年]]作曲者をピアノに[[ショスタコーヴィチ]]のチェロソナタの“伝説的録音<ref name=Minderovic/>”。「私が何を質問するにも提案するにも…ショスタコーヴィチは一言一句に耳を傾け…どんな新たな細部にも同意しました…スコア上の彼独自の注記に反する事さえにも<ref name=Wilson/>」とシャフランは述べている。これはショスタコーヴィチの性格だけでなく、シャフランの自らの音楽観への自信を際立たせる。[[1962年]]作曲者の指揮で[[ハチャトゥリアン]]のチェロ協奏曲を演奏。
彼の初期のコンサートや録音がシャフランの当時の評判を明らかにする。最初の録音は十四歳の時のロココ変奏曲。[[1946年]]には[[ルーマニア]]で[[ジョルジェ・エネスク]]をピアノに迎えての演奏会。[[1954年]]作曲者自身の棒のもと[[カバレフスキー]]の[[チェロ協奏曲第1番 (カバレフスキー)|チェロ協奏曲第1番]]を録音。この時カバレフスキーは感銘を受け、[[チェロ協奏曲第2番 (カバレフスキー)|チェロ協奏曲第2番]]をシャフランに献呈することとなる。[[1965年]]にはこの作品を初演、録音している。[[1956年]]作曲者をピアノに[[ショスタコーヴィチ]]のチェロソナタの“伝説的録音<ref name=Minderovic/>”。「私が何を質問するにも提案するにも…ショスタコーヴィチは一言一句に耳を傾け…どんな新たな細部にも同意しました…スコア上の彼独自の注記に反する事さえにも<ref name=Wilson/>」とシャフランは述べている。これはショスタコーヴィチの性格だけでなく、シャフランの自らの音楽観への自信を際立たせる。[[1962年]]作曲者の指揮で[[アラム・ハチャトゥリアン|ハチャトゥリアン]]のチェロ協奏曲を演奏。


シャフランは最初の妻、ピアニストのニーナ・ムシニャンと共に数多くのコンサートツアー、録音を行った。後にはピアニスト、アントン・ギンズブルクと長期にわたるデュオを組んだ。
シャフランは最初の妻、ピアニストのニーナ・ムシニャンと共に数多くのコンサートツアー、録音を行った。後にはピアニスト、アントン・ギンズブルクと長期にわたるデュオを組んだ。

2013年2月4日 (月) 05:22時点における版

ダニール(ダニイルとも)・シャフランДаниил Борисович ШафранDaniil Shafran, 1923年1月13日 ペトログラード - 1997年2月7日 モスクワ)はソビエト・ロシアのユダヤ系チェリスト

生涯

初期

ダニール・シャフランは1923年ペトログラード(レニングラード)に生まれた。音楽を学んでいた父母の元、彼は生まれる前から既に音楽に囲まれていた。[1]。(後に父ボリス・シャフランはレニングラード・フィルの主席チェリスト、母フリーダ・モイセイェヴナはピアニストになった。)母が産気づいた時、父はハイドンチェロ協奏曲第2番を練習中であったため、技術的に困難なパッセージをマスターするまで病院に行こうとしなかったとシャフランは後年物語っている[1]

最初にシャフランにチェロを教えたのは父であった。シャフランがずっとレッスンをせがんでいたのだという[2]。「八歳半になった時、父が小さなチェロをこれ見よがしに持って来て、『チェロを買って来たぞ』と、父は怒鳴って言うのです『座りなさい、勉強を始めよう』[1]と。」そして真面目な音楽家で厳格な教師だった[1]父の指導のもとで一年半、シャフランは生涯にわたって守り続けた訓戒(勤勉かつ規則的な練習、最高の目標に対する努力の重要性)を吸収した[3]。この時に固く決めた原則は、作品が要求する演奏力を遥かに超越して演奏できるようになること。それによって技術的障害を克服することであった。「練習中は情け容赦なく自らを厳格に律する[1]」ことも学んだ。

十歳の時[1](別の典拠に依れば八歳[3])、シャフランは父に、当時レニングラード音楽院の教授であったアレクサンドル・シトリメルのもとへ、レッスンを受けさせるために連れて行かれた。当初、レッスンはシトリメルが教えていた子供のための特別音楽学校で行われ、その後音楽院で行われた。音楽院ではシャフランは選ばれた十人の才能ある子供の一人として出席している[3]。シトリメルのもとには十年以上(二十代前半まで)留まった。教育倫理などより、シャフランの技術的進歩を望んだ父の希望をよそに[1]、シャフランは彼以外の師を持とうとしなかった。「私自身の経験、そして同僚の音楽家たち全てが私にとって“第二の先生”だった[1]。」と彼は語っている。

シャフランが最初に公開演奏をしたのは、彼が十歳の時、音楽院のコンサートの中の一幕においてであった。そこで彼は技術的要求が大きいとされるダーヴィト・ポッパーの(’紡ぎ歌’と'妖精の踊り')を弾いた[3]。オーケストラとの競演デビューは一年後、十一歳の時であった、ここでは客演中のイギリス人指揮者アルバート・コーツのもとレニングラード・フィルとチャイコフスキーロココの主題による変奏曲を弾いた。十四歳の時に、若きヴァイオリニストとチェリストのための1937年全ソコンクールに参加した。シャフランは本来は年齢制限を下回っていたが、非公認のコンテスタントということで参加を許可され、第一等賞を獲得した。同年、“華麗な超絶技巧、詩人的な風貌”でセンセーションを巻き起こし[4]”、シャフランは国民的に有名になった[3]。この賞の副賞として最上級品のアントニオ・アマーティのチェロも授与された[3]

レニングラードでの音楽活動は第二次世界大戦勃発によってひどく荒廃していた。中でも全国コンクールは七年間延期され、再開されたのは漸く1945年、ロシア国内での戦争が終結してからのことである。この時の勝者が若きムスティスラフ・ロストロポーヴィチであった。1949年には“この国の若き指導的チェリストとしてのシャフランの優位は今や彼の四歳年少に当たるロストロポーヴィチにより脅かされ始めていた[4]”。シャフラン、ロストロポーヴィチの両者はブダペストで開催された1949年民主青少年音楽祭におけるコンクールに参加し、両者とも第一等賞だった。このコンクールで審査員だったダヴィッド・オイストラフは書いた。“両チェリストはチェロの響きを完全に操る。彼らの軽やかなヴィルトゥオジティと優雅なテクニックは多くのヴァイオリニストが羨むはずだ。[3]”翌年両雄は再びコンクールで相見えた。ボヘミアのチェリスト、ハヌシュ・ヴィハーン(カール・ダヴィドフの弟子)の生誕100周年を記念するイヴェントである、プラハでのヴィハーン・コンクールで。シャフランは決勝戦でロココ変奏曲を演奏した(彼自身認めるところに依れば上手く弾けなかったという)が、再び、シャフランとロストロポーヴィチは第一等賞を分け合った[4]

シャフランが1950年音楽院を卒業した時、彼は27歳、ロストロポーヴィチは23歳。ほぼ十年間彼らは二人の優れた若きチェリストとして傑出した存在であった。“両者とも既に驚くべき芸術的段階を達成していましたが、彼らは気質上非常に異なっていました。細部へのこだわりのおかげでシャフランは小品において卓越していました。彼の詩的繊細と彼が意のままにしていた音色の驚くべきパレットはロマン派印象派のレパートリーに似つかわしいものでした[4]。”彼らの気質は彼らに全く別の人生を歩ませることとなった。

コンサート活動

シャフランは独奏者としてのキャリアを追求し録音も非常に広く行った。彼のレパートリーには主要な協奏曲、チェロとピアノのための作品、無伴奏の作品が含まれる。高音領域における彼の驚異のテクニックは広範囲にわたるヴァイオリン用の作品を原調のまま演奏する事を可能にした。シャフランはチェロのレパートリーの拡張にも努め、他の楽器のための作品をチェロ用に編曲し演奏した[5]。しかしながら彼は稀にしかソヴィエト国外および旧東側諸国外に演奏旅行に出ず録音は事実上殆どメロディアに限られていたために、シャフランの国際的名声は非常に限られていた[5]

1950年にシャフランは、彼がそれまで頼りにしていた家族や先生と離れ、モスクワに移った。これは彼に芸術上の危機をもたらした[1] [3]。シャフランの初期の活動は、彼自身の観察に依れば、「非常に困難でした。私はへまをやらかしましたがこれは全く自然なことです[1]。」多くの神童たち同様、シャフランも成熟した芸術家に成長する必要があり、彼の最初の妻でありリサイタルのパートナーであったニーナ・ムシニャンが、過去と決別して新たな視野を広げる様促し[1]、この点で彼の非常な助けとなった[3]

彼の初期のコンサートや録音がシャフランの当時の評判を明らかにする。最初の録音は十四歳の時のロココ変奏曲。1946年にはルーマニアジョルジェ・エネスクをピアノに迎えての演奏会。1954年作曲者自身の棒のもとカバレフスキーチェロ協奏曲第1番を録音。この時カバレフスキーは感銘を受け、チェロ協奏曲第2番をシャフランに献呈することとなる。1965年にはこの作品を初演、録音している。1956年作曲者をピアノにショスタコーヴィチのチェロソナタの“伝説的録音[5]”。「私が何を質問するにも提案するにも…ショスタコーヴィチは一言一句に耳を傾け…どんな新たな細部にも同意しました…スコア上の彼独自の注記に反する事さえにも[4]」とシャフランは述べている。これはショスタコーヴィチの性格だけでなく、シャフランの自らの音楽観への自信を際立たせる。1962年作曲者の指揮でハチャトゥリアンのチェロ協奏曲を演奏。

シャフランは最初の妻、ピアニストのニーナ・ムシニャンと共に数多くのコンサートツアー、録音を行った。後にはピアニスト、アントン・ギンズブルクと長期にわたるデュオを組んだ。

シャフランのアメリカデビューは1960年カーネギーホール、この際彼は彼の先生の兄弟オシップ・シトリメルに会っている[1]。彼のイギリスでの最初の演奏会は漸く1964年ウィグモア・ホールロイヤル・フェスティバル・ホールで行われた[2]日本にも数度訪れ、オーストラリアにも演奏旅行に出ている。ベルリンの壁崩落の時までには、シャフランのコンサート活動は終わりを迎えようとしていた。

解釈とテクニック

シャフランは演奏の際詩的で謙虚な方法を採った。彼のヴィブラート、フレージング、ヴィルトゥオジティの全てが彼の際立って情熱的な演奏に加味された。彼の様式の特質としては、豊かな音色、無限の音楽的自由、技術的熟練が挙げられる。

シャフランのアマーティ

大チェリストとしては異例な事にシャフランは生涯を通じて同じ楽器を弾いた。彼は14歳の時に獲得したアントニオ・アマーティのチェロと不壊の絆を築いたのだ。

このチェロは1630年作とされる。大きさはフルサイズのものより若干小さく、“いかに素晴しいものであれ、どんなアマーティもその活動の頂点にあったソロチェリストにとって充分力強かった[3]”か否か疑問視されてきている。しかしながらシャフランの録音はこのアマーティが力を欠いていたといういかなる気配も見せない。

1997年9月、シャフランの死後しばらく経ってから、彼の未亡人スヴェトラーナ・シャフランはこのアマーティのチェロをグリンカ博物館に寄贈した[6]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l Mark Silberkvit : A Conversation with Daniil Shafran, from "The Way They Play" Volume 8 by Samuel Applebaum and Henry Roth
  2. ^ a b Margaret Campbell : Obituary in The Independent
  3. ^ a b c d e f g h i j Margaret Campbell : The Great Cellists
  4. ^ a b c d e Elizabeth Wilson : Rostropovich - The musical life of the great cellist, teacher and legend
  5. ^ a b c Zoran Minderovic, All Music Guide
  6. ^ http://www.classicus.jp/shafran/greeting.html

外部リンク